母の一回忌
お骨をおさめたお寺に来ている。
今年は自分のために多くの時間を使えていて、これまで後回しにしてきたことたちに比較的向き合えている。
ここ数年で身近な存在が亡くなったり離れたりと次々近くからいなくなっているけど、案外寂しさに打ちひしがれたりすることもないんだなと感じている。
平穏に楽しく過ごせている。
不安は現実でない時の方が大きく力を持っているとつくづく思う。
孤独が現実となった今、思ってたよりも孤独感もない。
何度か死を目の当たりにしていくうちに、身体という物質からエネルギーが失われるのを感じた。
生きていた存在が死を経由することで物質を持った状態ではたしかに会えなくはなった。
どう表現するのが適切なのかがわかりにくい感覚なんだけど、完全に消滅したかのようには感じなかった。
特に死の間際は身体を持っているからこその苦を強く感じた。
そこから解放された状態になったと思うと、たしかに死は安息でもあるとも思えるようになった。
霊感的なものが自分にあるとは思わないし、仏教の教えを理解しているとも思えないけど、何度か命を看取る中で何となくそう感じた。
母は自分を知られることを恐れているように感じていた。
本人としても死が迫っていることを感じた時にやっと私に総入れ歯であることをカミングアウトした。
それも20歳になる前くらいに東京のどこかの駅のエスカレーターで転落事故が起こりその巻き添えになったと。
その時に1週間くらい意識不明の重体になり、幸い意識は戻ったものの口腔内の損傷が激しくそれから総入れ歯となってしまったそうだ。
初耳だった。
私が17歳になるまで同居していて、その間もまったく気づかなかったし、より長い時間を共に過ごしていた妹も知らなかったそうだ。
火葬をした後、歯が残らないことで不審がられると思ってのカミングアウトだったのだろう。
母が亡くなった後、葬儀に来てくださったご友人と話しているとそのご友人は葬儀でやっと実年齢を知ったと言っていた。
年齢についてなぜか絶対明かさなかったそうだ。
「私も結婚が遅くて、結構近い境遇だったことを知っていたら、もっと色んな話ができたのかも知れない。」と仰っていて、少し切ない気持ちになった。
他人からするとそれを知ったところで何かが大きく変わるわけでもないと思うようなことを母はきっと他にもたくさん明かしていないのではないかと思う。
最期までこれまでの時間でどんなことを思っていたのかを私にも妹にも話すことはなかった。
何かの答えを知りたかったわけではないけど、コミュニケーションは生きているうちにしかできないことを痛感する。
遺されたものには、少し寂しさを残しはしたけど、今は何も気にしなくて良い次元にいると思うと、やっと心が休まったのではないかと思わずにはいられない。
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