「嫌い」の正体
かの有名な、けんすうさんの文章を読んだ。
簡単にまとめると、
・「知ってる」と「好き」は似ている
・「知らない」と「嫌い」も似ている
だから、自分に対するアンチに対しては、少し大目に見て接してあげた方がメリットがあるよ、という趣旨だった。
でも、僕の「嫌い」に対する見解は、少し違う。僕は、「嫌い」はもう少し、複雑な感情なのだと考える。
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もちろん、「知らないと嫌いは似ている」という側面を、否定するわけではない。実際、その通りだからだ。
「知ってると好きは似ている」は、明らかだ。カラオケでは、聞いたことがある曲が流れると嬉しいものだ。
そして、その対偶をとった「知らないと嫌いが似ている」というのも、ある程度は真なのだろう。
しかし、「知らなかった」としても「好き」になることは、往々にしてある。
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たとえ初対面であれ、好きなものには一瞬で引き込まれる。
Spotifyで流れてきた一曲に、名前も知らないボブの女の子に、僕らは雷に打たれたように恋に落ちる。
そういうものは、出会った瞬間から「好き」なのだ。詳しいことは何も知らないのに、「好き」なのだ。
人間、自分が心から好きなものは、直感で感じ取れるようにできている。
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では、「嫌い」とはなんなのだろうか?
ある同僚が先輩に媚を売って、いい仕事を手に入れる。自分はその同僚のことを「あんなの実力じゃねぇ」と毒づきながら、もう片方で、「それをできなかった自分の不甲斐なさ」に目を隠していたりする。
あるいは、「なんかこの人、暑苦しくて苦手だな…」と感じる。自分とは性格が違いすぎて、思わず距離を取って、自分を守ろうとする。
「嫌い」とは、つまり、劣等感、後ろめたさ、そういったネガティブな感情への拒絶反応なのだと思う。
誰かに対してネガティブな感情を持ち、そこから「逃げたい」と思う時、僕らはそれを「嫌い」になる。
それは畢竟、生物の本能のようなものではないかと感じる。精神的な疾患を回避するための、心のアレルギー反応である。
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では、その「嫌い」に対してどう向き合っていけばいいのだろうか?
これは、その人がどういう生き方をしていきたいかによって変わってくるだろう。
もし、自分を守ることが、とにかく最優先の人なら。
「嫌い」からは逃げるのが一番いい。SNSではブロックして、電話番号は着信拒否にして、とにかく逃げるのがいい。
自分の身体は大切だ。その考え方を、僕は否定しない。
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でも、もし、「自分を守る」こと以上に、人として成長したいという思いがある人なら。
あなたは、「嫌い」の根本原因と立ち向かう必要がある。なぜそれを「嫌い」なのか考え、場合によっては自分の振る舞い・考え方を修正していく必要がある。
それはとてもタフで、ストレスフルな取り組みになるだろう。しかし、それを乗り越えた先には、人間として一回り大きくなった自分が待っている。
もしかしたら、インフルエンサーなあなたはこう感じるかもしれない。
「アンチはアンチだよ!それに時間を割くなんて、人生の無駄だよ!」
そんなあなたは、自分のことを「嫌い」なアンチを、すでに「嫌い」になってしまっている。そして、あなたにあるネガティブな感情は、「アンチを発生させてしまった自分」から生まれている可能性がある。
あなたは、「アンチを発生させてしまった自分」から、きっと逃げたいのだ。でも、それを理解して乗り越えない限り、飛躍はない。
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意味もなく暴言を吐いてくる人間に対して、僕らは「嫌い」と感じない。それに対して抱くのは「呆れ」だったり、「悲しみ」だったりする。「自分に起因しない」ことに関して、「嫌い」とは感じないのだ。
誰かを「嫌い」になるのは、自分自身が関係している、ことが多い。
「嫌い」を理解して乗り越えていくことは、とてもいい試練になる。良薬は、口に苦いものなのだ。