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「俳優」だった私‐テレビ局でのあれこれ‐


例の某テレビ局の騒ぎをみて、はるか昔のことを思い出しました。


1.「俳優」


20歳の大学生のときです。当時、『日本テレビ』本社(麹町)に出入りしていた私。お昼のワイドショーでよくあった再現ドラマに「出演」していました。もっとも素人ゆえ、主人公の友人などの端役ばかり。たとえば、ベトナム戦争取材中に亡くなったある日本人戦争カメラマンがその後、なぜか亡霊となり銀座を歩いていたとの回がありました。

そのときは、彼が現地のジャングルで牢屋に勾留されていたとの設定で、私は「ベトコン」の番兵を演じました。裸足にゴム草履を履き、簡素な服装。当時のベトナムの若者らしく。のちに自分の姿をみたとき、我ながら似合っているな、と満足。今では信じられませんが、当時の私の体重は60キロ強、ウエストも70センチ台でした。長髪で、あの西城秀樹そっくり(本人談)。

また多くの芸能人が参加する正月特番の収録では、司会が高島忠夫、アン・ルイスの両氏でした。高島さんは偉ぶらず、私たちにも気軽に声をかけてくださいました。アン・ルイスさんは何とかという歌が大ヒットする直前だったような気がします。もっとも、何度リハーサルを重ねてもうまく動けず、悲しくなりました。しかし、やっとディレクターからやっとOKをもらい、「やればできるじゃないか」との言葉とともにいくらかの「ギャラ」も戴き、うれしかったことを覚えています。

さらに、あるドラマ・リハーサル中に、思わず私の方からストップをお願いしてしまいました。そのとき、当時ドラマ作りの名手で知られた有名ディレクターからすぐ、「おれの演出中にストップをかけられるのは、平幹二朗くらいだ」と大目玉。出来が悪くて、すみません。
 

2.大監督


そして、なんといっても思い出深いのは、『東京12チャンネル(現テレビ東京)』で放映されたあの『三億円事件』の再現ドラマです。念のため簡単にご紹介すると、1968年に東京・府中市で起こった白バイ警察官に仮装した犯人によって金融機関の現金輸送車から3億円が強奪された事件です。近くの『東芝(府中工場)』の皆さん方の給料だったそうです。当時、その金額の大きさ並びにその手口の大胆さで世間を大騒ぎさせました、結局犯人逮捕には至らず、未解決のまま公訴時効が完成しました。私はこのとき、その輸送車の乗員役で、近くの公衆電話から慌てて事件を一報するとの役柄でした。
 
しかも、それがあの岡本喜八監督の演出であったことが、私の自慢です。岡本監督と言えば、『日本のいちばん長い日』、『肉弾』、『独立愚連隊』等の映画で知られる大監督でした。また「喜八一家」と言われる如く、出演者、プロデューサー、助監督・スタッフらとの固い結束でも知られていました。実際にロケの前夜に指定された旅館に行くと、迎えてくれた助監督から「オヤジはもう寝ているので、静かに」と念を押されました。また翌日のロケでは、監督からとくに指導らしきものはありませんでしたが(論外ゆえ、相手にされず)、主人公の犯人役を演じたある新劇俳優には厳しい注文をつけておりました。納得できる演技ではなかったようで、「いい加減にしないと、怒るぞ」と、監督が彼にイラつく様子を今も鮮明に覚えています。
 

3.アシスタント・ディレクター


他方で、AD(アシスタント・ディレクター)の真似事もしました(実質、使いぱしり)。才能乏しさに「俳優」業に早や、見切りをつけたからです。さて、千葉・房総半島にロケに行ったときのことです。山奥で撮影していると、パトカーが何台もやってきました。聞けば、住民から110番通報があったとのこと。どうやら、当時まだ盛んだった過激派と勘違いされたようなのです。思えば皆若く、長髪にジーパン姿の集団でしたから無理は有りません。

そうそう「どっきりカメラ」もやりました。あるお笑い芸人に熊のぬいぐるみを着せ、通行人を驚かせるとの単純な台本。もっとも、それは表向き。当人には内緒でハンターを待機させ、その偽の「熊」を退治しようというもの。通行人(これも関係者)からの通報で駆け付けたハンターに鉄砲を向けられ驚いた「熊」が、遠くから違う違う!と必死にジェスチャーするその様子に、スタッフ一同大爆笑でした。
 
また、日本テレビの廊下で、「私の彼は左きき」等のヒット曲で知られた当時のアイドル「麻丘めぐみ」さんとすれ違ったことも覚えています。白いワンピースの清楚な姿がまぶしく、魅了されました。たまたま同い年でしたが、超売れっ子アイドルに比べ、無名の学生兼務の下っ端ADとの立場。気後れして、一言も声をかけられませんでした。残念!

もっとも、縁とは不思議なもの。その後、とあるところで、彼女のお嬢さんと偶然お目にかかる機会があったのです。たしか、都内R大学の理系学部に在学中でした。私が彼女のお母さんと昔、テレビ局ですれ違ったときと同じ年ごろであり、美しくそっくりでした。今は芸術方面のお仕事をなさっているとか。
 

4.その後


そうした私も、3年生になると次第にその方面に関心が薄れ、足が遠のいてしまいました。もっともその後、ゼミの後輩の下宿に泊めてもらったとき、後輩自身が日本テレビ系列の地方局幹部(大株主)の子息であることを知り、彼の筋で同テレビに推薦してくれるとの話もありました。ありがたいことでした。

でも私自身、もうそれまでのような業界への関心は乏しくなっておりました。あの世界の徒弟・上下関係の厳しさやロケ等での苦労を実際に見聞し、私には合わない(できない)と知ったからです。たしかに、一見華やかで派手な部分とは裏腹の、厳しく大変なあの業界の現実が見えたのです。また他局での事例ですが、ここでは書けないようなことも散見されました。
 
時を経てあるとき、タレントの噂話に夢中の私の娘たちに自慢したことがあります。若いころの私はテレビ局に出入りし、しかも「イケメン」だった(遠い過去の栄光)と。だが、目の前にいるただのオヤジからは、それもピンとこない様子。それではと家内に証言を求めても、苦笑するばかり。相手にされません。

5.思うに


ただ、そうしたテレビ局での体験から学んだことは多くありました。なによりそこに、番組制作の構成員間での強い絆を感じたことです。そうした所属する集団に対する各自の責任の連帯性こそ、日本社会の責任意識の特長ではないかと思われます。それは、弊社のような中小企業においても事情は同じ。そこから、「お互い様」と助け合いの精神が醸成されるのです。
 
それゆえ、今般の某テレビ局に関する騒ぎで迷走する同世代の局幹部たちにもなぜか自分の姿を重ね、お門違いな「同情」の念も抱いてしまうのです。あの業界、いろいろ言えない大人の事情もあるよね、と。そこには、関係する株主や自らの職務に対してよりも、同じ企業に所属しているとの事実そのものがまず大切だとの意識が見受けられます。

他方、それゆえ状況に対する相対性や適応性は高いとも思われるのです。たとえば、即座のやり直し記者会見や幹部の辞任などです。さすが、(番組)制作畑出身の(前)社長です。臨機応変。でもそれが理解されず、昭和の男ったらまったく・・・、と私同様に家庭で家人からも言われてしまっているのでしたなら、彼らはなんともお気の毒。
 
この会社に誇りを持つ。私たちでよい会社にしたい。そんな方々が、あのテレビ局を再生することでしょう。それが、所属を同じくする集団に対する責任の連帯性です。そうした日本人の在り方も捨てたものではありません。

頑張ろうぜ、ご同輩!


 
オイカワ ショウヨウ
横浜市生まれ。法政大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得満期退学。複数の国家資格を有し、『一般社団法人地域連携プラットフォーム』に在籍する傍ら『法政大学ボアソナード記念現代法研究所』研究員を務める。『府省共通研究開発管理システム(e-Rad)』に登録され、研究者番号を有する研究者でもある。
 
写真部の同級生に頼み、ファンだった南沙織の大型写真を部屋に飾る。高一のときはデビュー曲『17歳』での彼女のミニスカート姿に圧倒され、高三のときには『色づく街』での大人の雰囲気に魅せられた。だがその後、篠山紀信が大嫌いに。