映画館再開 「場所」という価値について
映画館
絨毯の柔らかい感触がある。幅が広い廊下を進み、重く分厚い扉を開けて薄暗く細い通路に入る。少し進むと、実物の数十倍大きい人間がしたり顔で話す光景が飛び込んでくる。そこは広い空間で、大きな顔に向かってイスが段々にずらっと並ぶ。壁一面に広がるスクリーンの予告編を背に、足元の灯りを辿って自分の席に着いた。携帯の電源を切っていると、10メートルほど前方にあるスクリーンではカメラ男のダンスパフォーマンスが終わり、本編が始まる。パッと映し出されたのは茶色の大地と、まっすぐ伸びた道路と陽炎。とたんに、知らない国、知らない感情、知らない人生が、目と耳からとめどなく流れ込んでくる。映画が始まった。
映画館は映画を観るためだけの空間だ。スクリーンへの投影は、テレビと違って、夜中の海に自分の姿が反射することもない。主人公の息遣いを遮る工事の音も、鳥のさえずりもない。レコーダーの時刻表示も、立てかけたDVDや本の表題も目に入らず、宅配便や来客におびえることもない。視界いっぱいの画面を見るには、家のテレビに近づいてもいいかもしれない。だが、スクリーンまでの距離、実在する巨大な画面とそれに合わせて出来上がる広い空間が、映画の世界の広大さを助長してくれる。そんな映画館がようやく再開した。
再開した映画館
緊急事態宣言の順次解除により、各地の映画館が営業を再開し始めた。大阪では5月初旬ごろから第七芸術劇場(5月23日再開)やシネヌーヴォ(6月1日再開予定)といったミニシアターが再開を発表し、その後シネコンも続々と再開する流れとなった。
(再開した第七藝術劇場。座席は1席空け、普段とは違い指定席だった)
大阪では、映画好きの間で有名な、成人映画も扱う新世界国際劇場が5月20日に再開したのを皮切りに、ユナイテッドシネマ、イオンシネマ、109シネマズの一部といったシネコンが22日に足並みをそろえて再開し、一足遅れてTOHOも29日に再開した。予定していた映画の公開延期、上映中だった映画の上映継続などスケジュールが混乱しているなかで、大阪ステーションシティシネマでは、休止中の午前十時の映画祭での公開作品が終日まとめて公開され、109シネマズやTOHOでは『君の名は。』『シン・ゴジラ』といった過去のヒット作品の再上映が行われるなど、映画ファンの渇きを満足させる動きがある。
(自粛空け最初の1本。最高だった)
最初に述べた通り、映画館は文字通り映画を見るためだけの空間であり、映画を味わう上ではこれ以上ない場所だ。それを前提とすると、映画館が休止していた期間は映画というものが最大限その魅力を引き出されなかった、いわば仮死状態と言えるだろう。映画を見るだけなら、スマホがあればどこでも見られる。近年ではネットフリックスを筆頭に、動画配信サービスが活況を見せ、テレビを着けるだけで世界中の10万を超える作品が目の前に現れる。それでも、私が『パイレーツ・オブ・カリビアン』で味わった大海戦の迫力、『ナイトクローラー』で暗闇に浮かぶジェイク・ギレンホールの狂気は、映画館だからこそだ。
映画館の役割
(『ニューシネマパラダイス』のワンシーン)
映画館が再開し、6月に入って私は近所の映画館で『ニュー・シネマ・パラダイス』を初めて見た。映画館という場所を通して、人生を濃厚に描き切った傑作は、30年経った今も全く色あせることはない。この作品は、映写技師に憧れる少年が主人公だが、「映画館」が田舎の小さな村にとってどんな場所であるかを見せつける。キスシーンを見に詰めかける男たち、暗闇で眠る客、上映中にふと目が合う男女。寝ている人にいたずらして、笑い合う村人たちを見ていると、映画館とは「場所」なのだと強く意識させられる。
漫画『じゃりン子チエ』(はるき悦巳)の街にも映画館がある。チエの祖母・菊の家には映画のポスターが貼られていて、代わりに映画館のタダ券が手に入った。菊は、休日にチエを遊びに誘うが、だいたい選択肢はパチンコか映画だ。映画館に着いてから、何を見るかを考える。館内に入ってみると、そこにはお好み焼き屋のオッちゃんがいて、雑談を交わし、後ろから「静かにしろ」と怒鳴られる。
(作中にはヤクザか警察が主役の映画が頻繁に登場する)
『じゃりン子チエ』では随所に映画・映画館が登場する。チエの母が好きな俳優、学校の授業で推薦される教育映画、映画館で働く青年。作品の時代は1960年~70年代と見られ、映画館は貴重な娯楽施設だった。遊びに行くとなれば、自然と足が映画館に向かう時代だったことがうかがえる。
(漫画『日の出食堂の青春』(はるき悦巳)でも映画館のシーンが印象的だ)
カラオケ、ボーリング、スポーツ施設、ネットカフェ、大型商業施設、中高生でも遊びの選択肢が広がった現在、映画館は数ある遊びの中の1つとなった。映画館のライバルは、テレビやビデオ、ネットフリックスだけではなかった。娯楽や交流の「場所」という性質が薄くなった後、映画館の存在意義は「映画を最大限楽しむ」に集約された。収まるところに収まった、と言える。
映画館という「場所」
映画館が映画を楽しむ一番の場所、という意見は、多くの人が共感するところだと思う。一方、休業期間中に筆者はツイッターで「映画の文化的価値は確固としてあっても、映画館が、所詮場所でしかないと言われれば否定できないのでは」と投稿している。これはコロナ禍で苦境に陥る映画館への支援についての話題で言及した内容だ。映画を見る上で唯一の手段ではなくなった映画館を、映画文化を守るという文脈において公的な支援は可能なのか、という問いを意図していた。映画の魅力を引き出せる映画館だが、フィルムの時代が終わり、デジタルデータで手軽に見られるようになった。この先VRが発達するなどしていけば、迫力や没入感すら手軽になり、映画館という存在の必然性は失われていくのかもしれない。
(第七藝術劇場で行われたリモート舞台挨拶)
近年、インド映画『バーフ・バリ』でコスプレしての絶叫上映が開催され、サイリウムを持って音楽ライブの配信を映画館で行うなど、各映画館では人が集まるという特性を活かしたイベントが開催されている。大阪のミニシアターでは、集まった観客同士の交流イベント、会員イベントなどを開催するなど生き残りをかけて、映画の上映+αのサービスを模索している。最初は、結果的に人との交流の「場所」だった映画館は、時代と共にその優位性を失った。本来の目的である「映画を最大限楽しむ」だけでは存続が危ぶまれるなかで、今、改めて「場所」としての価値を生み出そうとしている。
今回のコロナ禍により、『ニューシネマパラダイス』『テルマ&ルイーズ』『ゴッドファーザー』など過去の傑作がスクリーンに次々と蘇った。さらにここにきて、ジブリ作品の全国一斉再上映だ。筆者は、一生に一度は大スクリーンで『もののけ姫』を、と夢見ていたが、思わぬ形でそれが叶った。何回見たかわからない、自身の価値観を形作ったとも言える作品。そんな強烈な作品の威力を、余すところなく味わえるのが映画館だ。「もっと映画が見たい」そう思うのはいつも、映画館からの帰り道だった。コスパが良いのはネットフリックスだが、それでもやはり、と思わずにはいられない。
(文・写真 有賀光太)
画像出典
ニューシネマパラダイス(https://www.pinterest.co.uk/pin/610800768185924356/)