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時事ネタ【コーチ(心理)視点での兵庫県知事選。この選挙(20億)は必要だったのか?】
仕事が立て込んでバタバタしておりました。
というわけで、久々の投稿は今、話題の兵庫県知事選をコーチ(心理)視点で見ていこうということになりました。
☆いなむら候補における難しさ
今回の選挙で注目したのが、期日前投票段階(約18%)ではトップだった「いなむら候補」が、投票日当日に「さいとう候補」に一気に逆転されてしまったということです。全体としての投票率は、前回の41%から55%まで上昇。県民が参戦する方向に傾いた選挙でもあると言えそうです。
さて、今回の県知事選挙が異質だったのが、政策ではなく人格に端を発した選挙だったことにあります。
県知事の「パワーハラスメント体質」という議会・メディアのスクラムで全会一致という異例の不信任案決議が通り、この選挙に至っています。しかし、選挙が始まると真逆の流れになっていきます。百条委員会等でパワーハラスメントを確定させるファクトが出てこないだけではなく、むしろ百条委員会が県民に対し非公開で実施されたり、その非公開の音声データが流出したり、ファクトを決定する当時者の業務用PCの公開を議会サイドが妨害するかのようにふるまってしまいました。
こうして情報を隠すならば、そこに何か不都合な事実があるのだろう・と県民は判断し、世論の流れが傾き始める。そこに議員やメディアがパワハラ疑惑とした当事者たちから「NO」と否定されたり、切り取りによる創作であるという声明や事実の暴露が行われ、この傾きがより加速化されてしまいました。
いなむら候補にとって不幸だった一つ目はこの背景にありました。
県民から見た時に、県政を安定させる人格者としてこの選挙を単に戦術的に勝利するポジションであったのが、知事に対してクーデターを企てた既得権側の一人という立ち位置に変わっていってしまったのですから。
「正直、何が争点になったのかなという思いはあります。斎藤候補と争ったというより、何と向かい合ってるのかなという、そういった違和感があった」という選挙後の言葉は、まさに候補の実感であっただろうと感じます。
☆誤爆箇所のおさらい
加えて、判官贔屓(源義経が頼朝より人気がある)の心理があるように、人は、集団が個人を攻撃していることを見ると個人を応援しよう、助けようという方向に傾きます。県議会とメディアが総出で知事を攻撃している有様は、こうした心理を作動させるに十分だったでしょう。
また、付き合う人は選びましょうではありませんが、しばき隊のような暴力を辞さない端っこの人たちが行った活動(支援?)に対して、いなむら候補が反応しなかったことも、県民心理に対して大きなマイナスに働いた。「暴力は容認しない。前職のアンチではあっても私はそのような支持を必要としない」といったメッセージを明確に広く伝える必要があったかと思います。その意味では、応援弁士の選出も、もう少し県民視点で選ばれればこの一万数千票はどうだったかなぁとも感じました。
都知事選の蓮舫さんについても触れたように、最後の最後に市長連合が推したことも無所属である意味を完全に喪失させてしまいましたし、相生市長自身がハラスメントとしか思えない言動行動をみせてしまったことも致命的だったように見えます。県民からは「いなむら候補」こそ既得権の代理人であり、このような暴力的な市長グループの仲間なんだという印象(レッテル)を受けざるえなかったからです。
いずれにしても「政策」を戦わせるわけではない「人格」争点の選挙だったということ。また周囲の良かれというかかわり方にこそ課題があったりと。「いなむら候補」にとってはより難しく、より納得しがたい選挙になってしまったのではないかと見えました。
☆国民民主党に学ぶ点
そして実は、この点先の衆議院選挙で躍進した国民民主党に学ぶことができました。つまり「政策」勝負で相手の悪口を言わないという戦い方です。
「裏金」のような相手のミス、弱点を絶叫して自分達をあげようとしても、選ぶ側からすれば悪い奴かちょっとましな悪い奴かでしかありません。野党第一党が伸ばしきれなかった票を吸い上げた国民民主党の強さは、まさに「誰」を見て「何を」するのかが明確であったことです。
この点、県民の声に「いなむらさん陣営は相手の悪口ばかり」というコメントもありましたが、政策ではない人格否定の応酬にのってしまったことはやはり失策でした(この部分は、今後の選挙ですべての候補者立ちに広く活かされていけばというところかと思います)。
知事としてどんな未来を約束するのか?という強烈なメッセージがなかったことはPRにおける大きな失敗であったかと思います。現職は実績を語れますが、挑戦者はよりよい未来を提示して、初めて挑戦権が得られるからです。
国民民主党が「手取り」「103万の壁」を主張したように、兵庫県の未来、県民の現在をよりよくしていくメッセージは不可欠(伝わらなかった)でした。当たり前ですが、県政の安定は政治家や行政の課題でこそあれ、県民の課題ではありません。そこを強く打ち出しても響くわけもないのです。
ですので、実はどんな時でも選挙は「政策」なのだなとわからせてくれた選挙でもあったように思うわけです。ハーバード・ビジネス・レビューに掲載されたエイミー・ジェン・スの論文で
・相手は誰なのか。
・今から扱うトピックを彼らはどう認識しているのか。
・彼らを動機付け、彼らに影響を与える最善の方法は何か。
・現在の状況は私たちに何をすることを求めているのか。
・望みうる最適な結果、共通認識は何か。
という5つの項目がリーダーが自らに問いかける例として挙げられていますが、今回の大逆転劇は、この部分において「さいとう候補」が優位に立ち、勝利したと言えるようにも思いました。
と以上、どちらにも利害関係のない第三者としての感想でした。
日本のリーダーと呼ばれる方々。特に政治・行政の世界にいる方々は、自分だけの視点で物事を決めてしまっていることが多いように見受けます。少なくともこの五つを具体化し、言語化し、明快に答えられる状態での選挙が行われていくことを今後の未来に期待していきたいところです。
*個人としてこの状態に至っては、件の業務用PCは第三者委員等で検証され、要旨や状況が公開される(プライバシーには十分な配慮をして)よりないかなと思いますし、公の情報は基本、透明で風通しの良いことが肝要であり、最大の防衛手法にもなりうるのだなと見えました(公益通報の手続きが何が正しい議論以上に、RRの作り方、情報公開の在り方そのものという前提から兵庫県の課題は大きいように感じたわけです)。