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「勝浦川」その14.天秤棒

節分に産まれた子は敏雄と名づけられたが、敏雄はその名のとおり敏なること際立つ子だった。

生まれて半年も経つと這っていたし、或るときには家の前の道路に這い出したことがあった。

敏雄が生まれたころには道路も整備され筏流しに代わって木材を運ぶ馬車が往来していた。
折しも敏雄が道に這い出したとき馬車が走ってきた。赤ん坊に気づいた御者が咄嗟に手綱を引いたが驚いた馬の鼻息と急停止した車輪の音で周りの人々も異変に気づいた。誰しも赤ん坊は馬に撥ねられたか馬車に轢かれてしまったと思ったのだったが、土煙が収まると敏雄は何事もなかったかのように馬車の下から這い出てきた。

また或るときは、勝浦川の川岸に造られた石垣の上から河原に落ちたこともあったが、怪我一つしなかった。

敏雄が走り回るようになった昭和6年(1931年)9月18日、関東軍の謀略により満洲事変が勃発し我が国は戦時体制に入った。昭和8年(1933年)には国際連盟を脱退し世界的に孤立してゆく。


喜平と丈三郎は、時代がどうなろうと相変わらず毎朝暗いうちから山の畑に向かうのだった。

なにを運ぶにしても人力以外にはなかった。みかんの木の病気や虫を防除するための消毒液を作るための水も肥料も背負子か天秤棒を担いで運ばなければならなかった。

一人で天秤棒を担ぐと、天秤棒の前後に桶を吊るから桶二杯の水を運ぶことが出来る。だが、若い衆でも桶二杯の水を一人で天秤棒を担いで急勾配の道を運べる者は少なかった。

コツを知らぬ者は、天秤棒を二人で担ごうとした。
天秤棒の前と後ろに人間がいて真ん中に桶を一つぶら下げて担ぐとすると、運んでいる間に桶が左右に揺れ、桶一杯に入っていた水がこぼれて半分程度に減ってしまう。

一人で運んだ水の量と二人が運んだ水の量を単純に比べただけでも四倍対四分の一だが、一人で担げば効率が八倍に上がるのだった。


ゆきえは、初めての女の子を産んでいた。

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