「勝浦川」その26.三方原の空
平成29年(2017年)、極早生みかんが採れはじめた頃、敏雄は聖隷三方原病院のベットの上に居た。
敏雄の部屋の窓からは、17年前に亡くなった孝江が過ごしたホスピスの屋根が下に見える。だが、もう敏雄がその窓から下を見ることは出来なかった。それでもベットの足元に洗面台があり、その鏡に三方原の空が映って見える。
敏雄は丈三郎とゆきえの写真を見ていた。喜平と丈三郎が開墾したみかん畑で、休憩している両親を敏雄が撮った写真だった。「ようけ働いたなぁ・・・」と敏雄は呟いた。
両親である丈三郎と母ゆきえはようけ働いた。喜平お祖父さんもようけ働いた。 敏雄は7年前に杖を突きながら兄妹四人で墓参りして、勝浦川沿いの道から山の畑を見たが、あの年の8月に妹美代子が亡くなり、11月には兄英雄も亡くなった。あの山の畑のことを知る者たちが亡くなってしまえば、喜平をはじめ丈三郎やゆきえや英雄夫婦の苦労も無かったことになってしまうのだなと思った。
敏雄は、写真から鏡に映る三方原の空に目を移した。 窓の外からは救急医療に向かうドクターヘリの離発着する音がひっきりなしにしている。 敏雄は空を見ながら思った。 妻孝江も慣れない開拓生活と過酷な農作業と三人の子育てをしながら自分を支えて、ようけ働いてくれた。
孝江がいなかったら開拓と農園造りと温州みかん農家としての成功はなかっただろう。
敏雄が開拓を始めた昭和33年(1958年)、全国の温州みかん生産量は75万トンだった。それから幾度の大寒波や台風などの災害に遭いながらも、昭和50年(1975年)には367万トンという史上最高の生産量に達した。当然、価格は大暴落し、採ったみかんが棄てられたり、離農するみかん農家が続出した。
だがそのとき、敏雄は独り密かに喜んだ。 それは、温州みかんが“美味くて”“安くて”“沢山ある”証だったからだ。 敏雄が実現を目指した“日本中の家庭の炬燵の上に当たり前のように籠盛りのみかんが置かれている風景”だ。
あのとき、元志願兵だった敏雄の戦後処理は終わった。
早生みかんの収穫が始まろうとしている10月2日、敏雄は永遠の眠りについた。
さて、わたしはここで物語を終わりにする。
敏雄と孝江が遺したみかん農園のことや、現在約10ヘクタールに増えた農園のことを記すのは家を出たわたしの役目ではないだろうと思う。
わたしは心の中で遍路の旅に出るとしよう。 同行二人
最後までお読みいただき感謝申し上げます。 夜盗虫