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「勝浦川」その4.台湾

喜平に白羽の矢が立った。

村のなかで揉め事や相談事があると、なにかと頼られる存在であった喜平であったから、白羽の矢が立ったというより、はじめから白羽の矢は喜平に向かって射られていたのだろう。


慶応4年(1868年)は明治元年でもある。

この年、日本からハワイ王国へ渡った移住者を、ハワイの日系人たちは元年者(がんねんもの)と呼ぶが、元年者たちは徳川幕府から交代したばかりの明治政府の承認を受けずに移住した者たちだ。

だが、明治19年(1886年)になると、ハワイ王国と日本の間で移民条約が結ばれ日本政府はハワイへの移住を斡旋するようになった。こうしてハワイに渡った人々は、労働力を求めたハワイ王国と農民救済を図りたい日本政府の間で契約を交わしたので官約移民という。

1894年、ハワイ王国崩壊で官約移民制度は廃止されたが、1902年にはサトウキビ労働者の約7割が日本人移民で占められるようになったという。だから、当時海外移住は珍しいことではなかったし、家を継ぐ総領ではない者たちにとっては一縷の望みでもあった。


明治27年(1894年)日清戦争に勝利した大日本帝国は割譲された台湾を手に入れ、翌年には台北に台湾総督府を置き台湾統治体制を確立させていた。

明治42年(1909年)になると、台湾において「農業は台湾、工業は日本」という基本政策の下、明治政府は農業や漁業従事者の官営移民を募ったが、国と国が契約を交わした“官約移民”ではなく、あくまでも“自国内”での移住だから“官営移民”と言った。官営移民は定住を前提としていて、段階的に家族を呼び寄せることは許され、基本的に家族での移住であることと資金250円以上を所有していることが条件だった。

台湾への官営移民の募集は、四国・九州・中国地方を中心に行われたが、亜熱帯・熱帯気候に順応し易い適性を考慮してのことだろう。明治43年(1910年)には募集官が徳島に派遣され模範移民を募ったが、まず移民たちに期待したのは農業の技術指導が出来る台湾人農夫を養成することだった。

ところで、喜平にとっても渡りに船だった台湾視察のはずなのだが、はたして山育ちの喜平が船酔いに耐えられただろうか?


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