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「勝浦川」その10.斧音
丈三郎は、以前にも増して働いた。喜平は、丈三郎に掛ける言葉もなかったから見守ることしか出来なかった。
但し、危険が伴う山の急傾斜地の伐採作業だったので、見ていない振りをしながら見守った。
ゆきえも泣いてばかりはいられなかった。舅と夫以外にも、家には学校に通う夫の弟と妹がいたので、嫁としての立場だけではなく母親代わりでもあったのだ。但し、幼い時期に母親を亡くした弟や妹にとってゆきえは従姉で兄の嫁ではあっても、母親代わりにはならなかった。
こどもが亡くなったことで、丈三郎と同様にゆきえも一所懸命働いた。忙しく働くことでしか自身を保てなかった。
そして、ゆきえは子守りを頼んだ子のことを口にしたり生涯責めることはなかった。
勿論、限られ村内のことだから想像はできたが、周りの人たちも探るようなことはしなかった。その子やその親が詫びに来たろうが、それも村人たちの知らぬことだった。
朝、家の片づけが済むとゆきえも喜平と丈三郎の弁当を持って山に向かった。いつも、途中の山の墓に寄って埋葬したばかりの子に声をかける。
山の麓から開墾地までは、道がまだ十分に整備出来ていなかったから、ゆきえの足では一時間以上かかった。
半分程度登ったところには、作りかけの炭焼き小屋が在った。やがて山の木を伐った端材で炭を焼いて木炭を作ることになる。
更に登ると、伐採作業をしている現場近くにも雨よけの小屋が組んである。そこに着くと、ゆきえは囲炉裏に火を起こした。簡易に吊られた自在鉤に鍋と薬缶をかけ、山を登ってくる途中で湧き水を汲んできた竹筒の水を入れて湯を沸かし晩茶を淹れる。鍋を下ろしたら鍋に味噌を溶いた。
晩茶は阿波晩茶といって、七月頃に摘み採った茶葉を自家樽に漬け込んで発酵させて作るこの地域独特の製法の茶だが、各家庭によって味や風味が違っている。
ゆきえが昼食の支度をする間、山の何処かで木を伐る斧音が鳴っている。その音は一定の間隔を保って力強く鳴り響いていた。
ゆきえが声をかけると、斧音が止まった。