人は誰もが愛されていい存在・大切にされていい存在
人間観について、この記事を書く2週間ほど前に考える機会がありました。人間観とは「人のことをどのように観ているのか」であり、Co-Activeコーチングでは「人はもともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である」と定義されています。
その時、わたしの中で出てきた人間観は「人はたいそうな存在ではない」というものでした。地球というレベルで見ると、人の一生というのは大したものではない。だから、ちょっとしたことで悩む必要はない。ありのままで生きていけばいい。そう思ったんですね。
しかし、その後気づいたのは、「これは人生観であり、人間観ではない」ということ。「自分に矢印が向いている」こと。「他の人の人生もたいしたことがないと考えると、すごくモヤモヤする」ということでした。
そこで、コーチングを受けて「わたしの人間観」を深めていきました。
ここからはコーチングで受けた問いの流れで記載していきます。
人はたいそうな存在ではないのか?
− わたしにとって「たいそうな存在」とは?
この問いを受けて頭に浮かんだのは、家族であり、身近にいる親しい人たちでした。地球という全体で見るとたいそうな存在は何一つないと思うのですが、一人ひとりにとっては家族であったり、身近な人がたいそうな存在にあたる。動物も植物も同じように、彼らにとって身近な存在がたいそうな存在なんだと頭に浮かびました。
一つ一つはたいそうな存在ではないけれど、「それぞれにとってはたいそうな存在がある」。それが一つ目の答えでした。
自分を、この世界を、人をどう観ているのか?
− あきらさん自身もたいそうな存在ではないとのか?
はい。
− たいそうな存在ではないが、あきらさんのユニークさは何なのか?
「わたしでいていいんだ」と思ってもらえること。「普通に生きて、葦のようにたなびいていて、特別キラキラもギラギラもしていないけど、今に満足して生きている」こと。
そして、わたしができることは、笑顔で話を聞くこと。聴くこと。「いいんじゃない」「いいじゃん」「やったじゃん」と話を聞くこと。「やったことが素晴らしい」って受け取ること。
− どうして今の時代、今の場所に生まれてきたのか?
新しい命の誕生を祝福したい。この問いからこの答えがでてきたのは、正直不思議な感じでした。人間観を深めていた中で、どうしてこの答えが出てきたのだろうと。
− この世界をどう観ているのか?
世界は愛で満ちている。
誰もが愛を持っている。
争っている人同士にも、それぞれの愛がある。
自分を一番に大切にし、次に身近な人を大切にすると、世界は愛で満ちていく。
目の前の世界は愛に満ちている。
− 人のことをどう観ているのか?
人は「愛されていい存在」「大切にされていい存在」。
愛されることで自分というものを感じられ、自分でいられる。
「何もなさなくても、そこにいていい存在」なんだ。
今の時代、今の環境によって与えられたモノサシはたいそうなものではない。それよりも、この世に産まれてきて存在していることのほうが、もっともっと大切。人のモノサシで評価される必要はない。
どうして「たいそうな存在ではない」という言葉が出てきたのか、モヤモヤがありましたが、はっきりしました。勝手に与えられたモノサシがたいそうなものでないのであって、それよりもこの世に産まれてきたきたことが何よりも大切だということ。
新しい命の誕生を祝福したい。
どうして、NPO法人こうのさとの活動に心惹かれ、「新しい命の誕生を祝福したい」と思うのか。これまで、はっきりとした答えがわかりませんでした。
今日、人間観を深めて気づいたのは、「勝手に与えられたモノサシよりも、この世に生まれてきたことのほうが、もっともっと大切で尊いことで、だから自分は命の誕生を祝福したいんだ」ということでした。
それと同時に「あなたのままでいいんだよ」という関わりをしていきたいんだとわかりました。
ありがとうございます。
2022年2月25日