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コンパッションの呪文を学んだ私が会社員を退職してからの2年を振り返ってみて見えてきたもの


はじめに


今回の記事は、コンパッション・マインド・トレーニングのコミュニティのみんなでバトンを繋ぐ #コンパッションアドベント2024 への投稿記事です。


テーマはこちらです。さて、私はどんなことを書くのでしょうか。

「コンパッションとわたし」
「2024年にコンパッションを向けてみる」

さきさんの記事より




コンパッションとは?


まずは、ここまで何度も登場している言葉「コンパッション」について、前置きしておきます。

コンパッションという単語の意味ではなく、コンパッション・マインド・トレーニングのコミュニティのみんなが「コンパッション」にどんな意味を込めているのかを伝えておきたいと思います。

コンパッション(Compassion)は、親しみやすい言葉に言い換えてみると「思いやり」や「慈悲」です。そして、3つに分類できます。

自分への思いやり
他者への思いやり
他者から受け取る思いやり


さらに、これらはそれぞれ孤立しているのではなく、繋がった流れがあります。この3つが循環して流れているのをイメージしてみてください。

自分へ思いやりを向けることで、他者へも思いやりを受けることができ、さらに他者からの思いやりを受け取るようになる、そして、自分への思いやりを・・・と循環するわけです。

コンパッションとは、自分と他者への思いやりとそれらの循環によって成り立つ世界観です。「コンパッションがある世界のあり方」と表現してもいいかもしれません。

コンパッションの3つの思いやりの循環は、言葉面ではシンプルで易しいことのように見えませんか。でも、そう簡単にはいかないものです。もし簡単なことだったら、今の世界はもっと思いやりに溢れているはず。

私は、今年の5月から8月にかけて、コンパッション・マインド・トレーニングのワークショップを受講しました。そこで、「コンパッションがある世界のあり方」を実現するために、私たちに必要なことを学びました。受講後も学びは継続しており、実践できたりできなかったり、奮闘し続けています。

受講中に、Twitter( X ですね)で「コンパッション・コンパッション・コンパッション」と呪文のようにつぶやき続けていました。コンパッションの呪文とともに、学びの感想もつぶやいていますので、よかったらご覧ください。その時のつぶやきのツリーを貼っておきます。


コンパッション・マインド・トレーニングに、少しでも興味・感心をお持ちになりましたら、是非りょうこさんによるこちらの記事をご覧ください。より詳しい情報を知ることができます。


ふう、ここまで書いたら、うっかり締めの言葉を綴りたくなりましたが、まだテーマに触れていませんでした。いよいよ、ここから本題に入ります。




コンパッションと私


さて現在の私は、10年勤めた前職を退職してから、もうすぐ2年が経とうとしています。長いような、短いような2年でした。

退職してちょうど半年経った頃に投稿した記事に、当時の私の「仕事を辞めてよかった」という気持ちを残しています。

仕事を辞めてよかった

次の仕事を決めずに退職したのは、10年勤めた会社の最近の変化と、私自身の人生観の変化がちょうど重なったからでした。会社はかつて「ここでがんばってみよう」と思えたはずなのに、そうではない場所に変わってしまったし、私はこれからの人生を考えるようになったり、コーチングに出会ったりすることによって、「そうではない場所」を手放しやすくなっていました。いい潮時、いいタイミングだったのです。

在職中は、残業と出張がかなり多かったため、次の仕事のことを考える余裕が無かったとも言えます。退職日までに有給休暇を全て使うことはできず、会社に買取という形をとってもらいました。出勤最終日の夜遅くまで、業務の引継ぎや片付けに追われました。でも、すべてが終わった後の帰り道は、とても清々しい気持ちでした。肩の荷が下りました。

まあ、ともあれ、退職して「何もしていない人」になって半年。会社を退職して、仕事を辞めて、よかったなと感じています。



この「仕事を辞めてよかった」と感じる理由を、ここで補足してみます。「何もしていない人」になったことを、なぜよかったと思うのか。




ちょっとだけ脱線します。

平野啓一郎さんの「分人主義」の本をご存知でしょうか。『私とは何か』という本です。本の帯に「本当の自分はひとつじゃない」というような文言があったはずです。


谷川俊太郎さんの『わたし』という絵本も紹介しておきます。表紙の女の子の名前は「みち子」です。でも、お兄ちゃんからみると「妹」だったり、犬からみると「人間」だったりします。


『私とは何か』も『わたし』も、人は社会において、または人間関係において、複数の顔を持っているということをテーマにした本です。複数の顔とは、呼び名だったり、役割だったり、役職だったり、レッテルだったり。家族、学校、職場、といった場所によって変わる「何か」です。




私は、会社での自分が好きではありませんでした。正確に言うと、会社での自分の「とある一面」が好きではありませんでした。効率を重視し、改善を好み、自分の主張にしがみつき、人との交流を嫌う、絶えずイライラと怒りをたたえている、そんな一面です。

四六時中そんな一面を出していた訳ではありません。繰り返しになりますが、そんな自分が好きではありませんでした。でも、どうしても抑えられない一面でもありました。私はこの一面を『鏡の国のアリス』から取って「赤の女王」と名付けました。いつもプリプリ怒っているイメージです。

「赤の女王」の一面を発揮すると、ほぼ確実に仕事の成果や結果を出すことができました。失敗したり、体調を崩したりしても、「赤の女王」が奮起して挽回しました。任せられる仕事も少なくありませんでしたが、自分で取りに行ったり、創り出したりした仕事も膨大でした。「赤の女王」には「私がいなくなったら、この会社は困る」という強い自負がありました。

会社での私は、怖いとか、厳しいとか、話しかけ辛いとか、そんなイメージを持たれていたはずです。

もちろん、上司をはじめとする周りの方との協働関係があってこそ、私はやっていけたのだと分かっています。感謝の気持ちも間違いなく持っています。でも、どうしても「赤の女王」の自分を抑えられませんでした。


「赤の女王」私の頭の中で赤く熱く燃えている感じ


それが、会社を辞めた途端に「赤の女王」はひっこみました。本当に静かに、大人しくなりました。思えば、会社以外の場面では「赤の女王」は顔を出すことはなかったのでした。

「何もしていない人」になったことで、「赤の女王」がひっこんだことで、私はなんというか「私自身」になれたような気がしました。よかったと思いました。




ところが、この数カ月のことです。

「赤の女王」がまた顔を出すようになりました。「何もしていない人」ではありつつも、少しずつやりたいことに挑戦したりして、社会との繋がりを増やしていった矢先のことです。

そうか、困ったな、と思いました。困ったな。

不思議と、以前に感じていたような嫌悪感はありませんでした。「好きではない」という気持ちよりも、むしろ「赤の女王か、困ったな、よしよし」というような、彼女を受け容れつつ宥めるような気持ちがあります。

これは、コーチングを学んだことによる影響かもしれません。「赤の女王」が持っていたイライラや怒りの感情の底には、仕事をする上で頑張りたい、何かを良くしたい、結果を出したい、認められたいという願いがあることを知ったからかもしれません。

そして、何より「コンパッション」を学んだからに違いないと感じています。私は「赤の女王」に、彼女の頑張りたいとか認められたいという願いに、「思いやり」のような気持ちを向けるになったんです。「赤の女王か、おつかれさま」というような労わりの気持ちを持つようになったんです。

そうすると、あんなに抑えられなかった「赤の女王」の自分をなんとなくコントロールできるようになってきました。心の中で呪文を唱えるんです。「コンパッション・コンパッション・コンパッション」って。そうすると、客観的に、メタ認知的に「赤の女王」の自分を見ることができるようになってきました。





2024年にコンパッションを向けてみる


コンパッションの呪文を唱えつつ考えてみると、私の中の「赤の女王」が動き出したということは、「私自身」が動き出したことだ、という気づきがありました。私たちは一心同体といってもいい存在だったのでした。

これは、コンパッション・マインド・トレーニングの学びでも確認できたことでした。誰もが「複数の自己」を持っているんです。それぞれの言い分や存在理由を理解することが大切です。

会社を退職してからのしばらくは、「私自身」がお休みをとっていました。一緒に「赤の女王」もお休みしていたんですね。それが、今年の中頃になって、様子が変わってきました。私自身が「動きたい、働きたい」という気持ちを持つようになったんです。

Twitter( X ですね)でも、ちゃんとつぶやいていました。思えばこのあたりから、私自身の状況が少しずつ変わってきました。「何もしていない人」からの変化です。


私は、この私自身の2024年の変化変容に「コンパッション」を贈りたいと思いました。私自身と「赤の女王」が動き出したことによって、これから何か、挑戦なのか、試練なのか、冒険なのか、何か新しいことが控えている気がするからです。

「何もしていない人」という名乗りは、ジェニー・オデルの『何もしない』からとっています。「何もしない」ということは、本当に何もしないのではなく、むしろ絶えず思考し、抵抗し、活動するんです。


私はそろそろ『何もしない』の真の意味で、「何もしていない人」にならないといけないのだろうなと感じています。この気づきは、私にとってはまだ恐れ多いというか、空恐ろしいというか、とんでもないことで、それこそ「コンパッション」が必要だと感じます。

自分への思いやり
他者への思いやり
他者から受け取る思いやり




おわりに


ここまで書いてみてつくづく思うことは、私たちには社会との繋がりが絶対的に必要だということです。

2年前に会社を退職したとき、社会との断絶をしたと感じました。もちろん完全にではありませんが。社会との断絶をしたことで、「私自身」がお休みをとったんです。お休みとは心身の休養も意味しますが、「人としての成長」も休んでしまったのではないかと思います。

コーチングやキャリアカウンセリングの学びを通じて、何かしらの成長はありました。お休みしたことで、心身に余白を感じたり、伸びしろを作ったり、「人としての成長」に欠かせない何かを養ったのかもしれません。

でも、真の「人としての成長」は社会との繋がりの中で起こるのではないか。私の中の「赤の女王」が動き出したことが、私にそう思わせました。そして、そこには「コンパッション」があるといい。




この note を書くきっかけを作ってくれた コンパッション・マインド・トレーニングのコミュニティのみんなに感謝します。りょうこさんさきさん、ありがとうございました。みどりん、いつもありがとう。

ここまで書くことができて、ざわざわしていた心がやっと静まってきました。やれやれ。

最後にもう一枚、私のスージング画像を貼っておきます。スージング(心を静める)という言葉を知ったのも、コンパッション・マインド・トレーニングの学びからでした。あらためて感謝です。


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ワカナ/コーチング/キャリアカウンセラー
ここまでお読みいただいたことに感謝です。毎回生みの苦しみを感じつつ投稿しています。サポートいただけたら嬉しいです!