「叱る」と「怒る」は似たようなもん
「叱る」と「怒る」が違うという話を力説されたので,あらためてこの件について考えました。
結論,同じじゃないけど似たようなもんだと思います。
なかなか理解されずらいかもしれませんが,叱ってるひとはほとんどの場合怒っていると思うからです。
なんで怒っているのかというと,自分の都合が悪いからです。
ひとにとって自分の都合は最強の理由であり,また都合しかないとも言えるものです。都合によって結論はいつでも左右されてしまうものなのです(そういう意味ではこの結論も僕の都合でできているのでしょう)。
子どもが騒いではいけないところで,騒いでいるのをみて「静かにしなさい!」と怒鳴りつけたとしても「静かにするんだよ」と静かに叱ったとしても,そのスタートは「うるさいと感じたことです。」
うるさいと感じてもいないのに,静かにして欲しいとは思わないものです。そしてのその「うるさい」というのは,それを感じた者の価値観によるものであって絶対的な「うるさい」でもなければ,「うるさいからダメ」というものでもありません。
ともあれ,「うるさい」とイライラしているのです。
しかしそうでないこともあります。
「場」での「振る舞い」をどうするべきか?といったマナーとか道徳とかいったものの知識を伝える場合です。
ただ知識として「こういう場面では静かにするべきだ」ということを教えるとすれば,それは叱るではなくて「教える」とか「説明する」とか「諭す」とかそういうことになると思うのです。
その場合,結論は子どもに委ねられます。
教えられ,説明を受け,諭されたとしても,引き続き騒がしくすることもできるわけです。
反対に「叱る」というのは,その中身はどうあれ指示に従うことを強要するものですから,要するに「言うことききなさい」と言っているのとそんなにかわらないのではないだろうかと僕は感じています。
「怒る」は怒ることで無理矢理にこちらの都合にあわせるよう強要する短絡的なコミュニケーションでもありますから,その意味では思慮深いことと,工夫をしている点で,叱ると怒るは異なりますが,本筋はまぁ似たようなもんかなという結論です。
どうも僕はこの議論を
「怒る」はダメで,「叱る」は良い!
と切り分けすることで,親が子に強制させることを正当化しているような気がして,腹落ち感が少ないというか,強制させるのであれば堂々と教えたらいいのではないだろうかと思うのです。
親が子に教えることはあたりまえにあって,それは親の価値観に基づいていたり,世相や時代に紐付いていたりするわけですが,その点で自立性とか主体性を阻害する可能性はありますけれども,親の考えや価値観が絶対的なものではないという前提になって,私はこう思うし,あなたにも理解して欲しいという最大限の自由を子どもたちに与えた上でお願いする程度の強制性はあってもよいのではないかと。
「怒る」強制性はダメで,「叱る」なら良いというのもたぶん親の都合です。
子どもからすれば「怒る」も「叱る」も納得無く,行動を抑制されてしまうという点では似たようなもんなのかなと。
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