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ドライブ マイカー

社会派ブロガーのちきりんが、音声メディアVoicyで、まだ取ってもいないのに
「歴代アカデミー賞受賞作品の中でも1、2位を争う作品になる」
と絶賛していたので、観に行ってきた。
ノミネートの段階でちきりんがここまで褒めるのは、かなり凄いに違いないと思ったからである。

「ドライブ マイカー」

実は、村上春樹の「女のいない男たち」が原作だと聞き、関心を失っていた。

なぜなら彼の作品、どんな物語なのかタイトルからは全く想像がつかなくて、ワクワクしなかったからである。
「女のいない男たち」って、聞いた瞬間に「パッとしない男」が目に浮かびません? 
「騎士団長殺し」って、テンプル騎士団とか? 昔のキリスト教徒の揉め事の話?
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に至っては、もう言葉の意味すら分からない。笑


とはいうものの、実はかつて村上春樹に熱狂していた時代があった。

彼が、私と同じ文京区目白台にあった学生寮に住んでいたというのもシンパシーを高めた理由かもしれない。私が阿修羅像の写真パネルを部屋に飾っていた頃の話だ。




彼のデビュー作「風の歌を聴け」は、文学部の学生だった僕たちには
「こんなので賞が取れるの?」
といったような優しく分かりやすい作品だった。
多くの同級生たちが読んでおり、みんなが話題にしていた。


事実、この本を読んだ仲間と、「月刊24歳」という同人誌を始めたほどだ。
その仲間たちというのは、高校時代に「0歳の記憶」とか「光の音」といった、いかにも「風の歌を聴け」的なタイトルの文集を作っていたりしたのだ。

村上春樹のデビュー作は、僕たちの延長線上にある、兄の友人みたいな存在の作品だった。

「1973年のピンボール」って大江健三郎の「万永元年のフットボール」を意識してるよね! 「間違いないね!」みたいな他愛のない会話をあたかも文学論の
ように交わしていた。


村上春樹の作品の主人公は、なぜか作中で非常にしばしばサンドイッチを作っており、これまたかなりの確率でジャズのレコードを聴きながら食べていたりするのだ。

なんだか知らないけれど、それが格好良くて、知らず知らずのうちにサンドイッチを作って食べていた。

ジャズを聴きながらサンドイッチを作る村上春樹の小説の主人公は、あの年齢の僕たちがつまづくようなところでつまづいたり、どうでもいいことなのにどうしてもないがしろにできずに悩んでいたり、いくら考えても簡単には答えが出ないことを際限なく考えていたりした。

僕たちは、「羊をめぐる冒険」みたいに、日常に謎がたくさん存在する年頃を生きていた。

世の中を知らないから悩めたし、制約なしに空想を羽ばたかせる自由と時間だけは存分に持ち合わせていた。


僕らは大学を卒業して社会人になっても、千駄ヶ谷にあった村上春樹のジャズ喫茶に足を運んだりする結構な村上フリークだった。
そんな村上作品との蜜月は「ノルウェイの森」や「ダンス・ダンス・ダンス」あたりまでだった。


日常の中心には仕事が居座り、人生に謎が入り込む余地は減り、どうでもいいことに悩んでいるほど暇ではなくなってしまったのである。


「若者向けの本は、もういいかな」


熱狂は、そんな距離感に取って替わられていた。



でも、「ドライブマイカー」で、わざわざ広島から北海道まで車で走り尽くして
見つけたものは、自分に向き合おうとしない自分自身が失くしていたものそのものだった。


今の生活が壊れてしまうのが嫌で、
「悲しいことにも悲しい」と言わず、
「辛いことにも辛いと言えない」大人の自分そのものだった。


村上春樹は、「若者向けの本は、もういいかな」
と彼から遠ざかっていた僕自身が陥っていた深くて暗い穴を、
見事に僕に見せてくれた。


遠ざかっていて知らなかったけれど、作家も歳を取り、大人の悩みを悩んでいたんだなとシンパシーが湧いた。


劇中劇として登場するチェーホフの「ワーニャ伯父さん」は、劇中でもロシアの片田舎での暮らす人々の絶望と忍耐を語る。

「耐えて、耐えて、時が来たら静かに死んでいこう。そしてあの世で神様に、私たちは辛かった。私たちは悲しかったと言おう。そうしたらきっと神様は憐んでくれるから」


この劇は、千駄ヶ谷の村上のジャズ喫茶に僕を連れて行ってくれた先輩が、自分の劇団で演じていた芝居だった。観に行った事があった。

大人になると人は、「生活」を守ろうとするあまり、自分自身を生き生きと生きることを放棄してしまうことがある。
それが「大人になる事」だよと言わんばかりに。


映画は僕に、守ろうとするあまりに、失っているものはないかと問いかけてきた。


正直に生きるという選択がたとえ波風を立て細波を起こすものであったとしても、自分に向き合い自分の声に耳をすます事ほど大事なことはないのではないか?
そう問いかけられている気がした。


そう問われて、たじろがない大人はいないだろう。


家族の死など、避けられない出来事に傷ついてしまうことはある。
そこから、立ち直り生き直すには、自分の正直な声に耳を貸すことだ。


「聴くこと」こそが何より大切なことなのだと教えてもらった気がした。


聴かずに喋ってばかりいる自分、まさにそれは自分からも目を背ける行為なのだと「赤いサーブ」が教えてくれた。

アカデミー賞作品賞、取れるかなぁ