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2020年1月:3か月だけ公立小学校の現場に戻って、自分の在り方で同じ仕事でも変わるなぁと思った話

なんだかんだで2018年末に日本に戻り、2019年の1月からとりあえず実家から通える範囲の公立小学校の常勤講師をやりました。
とっても短い時間ですが、正規で4年経験した公立小学校教員という仕事をもう一度見つめる良い機会になりました。


保育園に入れたい?それならば働いてください。となって5分で講師登録。

海外から帰国して、実家に住民票を登録して、そのまま保育園を探そうと思ったら、保育課の窓口で「ご両親のお仕事の状況について教えてください」と言われたんですね。無職ですと答えたら、「求職活動をしないと点数がありません」と言われてしまいました。
そうか、働かないと保育園には入れないのかと、当たり前のことに気づかせてもらった後、求職活動をしようと、そのまま市役所の教育委員会にフワッと、「常勤講師の登録したいんですけど」と行きました。

両親がその自治体で30年以上教員やってますし、私もそこで4年間は小学校の正規採用をやって退職していますので、教育委員会にいれば知り合いがいるものです。その日は私のことを「しょうくん」と呼ぶレベルの知り合いが教育委員会にいました。「えー!!しょうくん!日本戻ってきたの!?」ってなりました。
「子どもを保育園に入れたいので、とりあえず困ってそうなところで働きます」と応えたら、それはもうどこでも選びたい放題って感じで、一瞬で勤務の可能性のある学校を複数あげられました。
自動車を処分してベトナム行っていたので、なるべく家から近くて自転車でいける範囲と思い、実家から自転車で10分くらいの学校に決めて、ここ挨拶いきますねとなりました。

日本の公立小学校の人手不足の情報は知っていましたが、実際に売り手として体験すると「もはやここまでか…」と戦慄するものがあります。1月なので、その年度の4月開始から9ヵ月ほどたち、その1年間でいろーんなトラブルの果てに休職していたり、退職していたりする先生がいろんなところにいて、ある意味一番人手不足だったかもしれません。
私は、産休補助教員(産休に入るための先生の代わり)として、2年生の担任になることになりました。

人手不足の中の即戦力!!と感謝されながら、定時出勤定時退勤講師として生まれ変わってみた

そのときの2年生の学年は3クラスで、学年主任と、新卒と、やまだという配置でした。
現場経験4年あって、海外のインターナショナルスクールで管理職やってましたよ、計7年現場にいますよって経歴を伝えたら、「即戦力の人なので、ありとあらゆることを任せるから、3カ月いい感じにして!とにかく来てくれてありがとう!!」って感じでした。
初めて教室に入るときは、ちょうどその日体調不良で欠勤した先生がいて、管理職も補欠に入っててんやわんやだったので、「あ、もう紹介とかいいんで、私のほうで教室はちゃんとやっときますよ」って言って勤務がスタートしました。
正直、数年前に正規で担任やってたときより、めちゃくちゃ感謝されました。やってる仕事は、正規採用のときの60%くらいの分量だったのに、です。
産休補助ということで、妊娠中の先生が可能な範囲の校務分掌(学校内の仕事の割り当て)しかされておらず、それをそのままスライドして受け持つだけという感じです。
1月ということで、そこからわざわざやまだのために仕事を再編するような時期でもなく、「給食委員会のサブ」的な位置づけが多く、正規のときは「高学年担任をしながら週26コマの持ち時間回して、体育主任で運動会と部活動とプール管理の起案を同時にして、市の部活動の委員をして大会を運営して、組合の青年部の活動をして、大学の同窓会の研究推進を…」みたいな労働強度だった私にとっては、担任以外の仕事は無いに等しいものでした。

加えて、ベトナムにいる間に日本の先生達に向かって発信をし、逆に日本のとがった実践者たちの発信を見てきたことで、教員の仕事も「生産性」という概念を大切にしていこうと思って現場にたっていました。
具体的には、勤務時間内でできる限り成果を高めるということを実践してみました。
するとできるんですね、まぁもちろん前述の通り仕事が軽いこともあったけれど。
正規採用のときは、「7:00~19:00出勤+土日のどちらかしか学校へは行かない」というのを自分ルールにして仕事をしてきました。1日12時間学校にいることが、普通です。週休1日を取るようにルールにしていました。気を抜くと土日両方学校に行きそうなので。時間設定は、家から学校が少し遠く朝の渋滞に巻き込まれない時間だったということと、朝は電話が鳴りにくいので準備に集中できるという理由でこういう仕事の仕方をしていました。周囲をみてもそれが普通だったし、それで成果を出せているのだとも思っていました。

結局は楽しいから、無限残業を発生させている部分ってあると思う

でも、一回離れて、ベトナムで経験を積んで、日本のその働き方を振り返ると、異常だったなぁと思います。モーレツ爆裂外資系or上場企業で年収1800万円です!みたいな世界観ならわかりますけどね。当時年収600万いかないくらいの成果関係ない固定給だからなぁ…。
中にいると、それがどんな意味があるのか、相対化して考えることができませんでした。そして子どもの成長を引き出すためにはそれが必要だと思っていたし、そうしていない、諦めて枯れてしまっている先輩先生達をみて尊敬できていなかったというのもあるでしょう。

また、今振り返れば、「無尽蔵に自分の時間を最大投下しても固定給」という文化を自分自身が善しとする生き方をしてしまったことで、業界全体がその水準になってしまっていくことを善しとすることに加担していたよなぁと思います。

例えるなら、「もういつ引退してもいい、年金をもらっているおじいちゃん職人が、趣味の一環で仕事を受け続けて、しかも技術はあるからいいものを納品してしまうから、相場が安いところに固定されて、若い職人が稼げなくなってしまうので、その仕事をする人が減って業界全体が沈む」って感じのことが学校では起こっています。

このあたりの「どうすれば」というハウツーは発信している人が沢山いるので、まぁ気になる人はそれぞれ調べてもらうとして、とにかく一回外に出たことで、サスティナブルな教員というものは可能で、戻ろうと思えば戻れるなーという気持ちになりました。
たぶん、日本で4年正規採用をしてから、講師で日本中を転々とするという当初の計画よりも、ベトナムにいっていろんな先生の発信を勉強したことで、かなり万事いけてる感じで常勤講師ができそうな予感でした。
実際1月2月とまるっと2か月やってみて、残業をせざるを得ない状況になったのは、成績処理の間の3日間くらいでした。2年生ということもあり、子どもたちも早く帰るので、授業準備は勤務時間内に全て終わりました。

周囲の先生は結構残業してましたが、勤務初日から定時に「お先に失礼します」と帰ったときから、「あの人はそんな感じなんだ」というキャラを作れて、そこからはもうずっとそんな感じでした。逆に残った3日間は「山田先生が残ってるの珍しいねー」と言われる世界観でした。別に誰かの目を気にして残業する必要は無いし、授業と学級が安定していたら、基本的にはむしろ早く帰って成果を出す、学校を助けてくれる存在的な扱われ方をして感謝されました。このあたりも、ずーっと残って学校全体の仕事をしていた正規のときって、いったいなんだったんだろうなぁという感情を芽生えさせました。

コロナで全国一斉休校、それから…

3月、人類が経験したことのないコロナがやってきて、一斉休校になりました。
1か月の休校で、成績もほぼ付け終わっていたので、特にプラスの課題を出すわけでもなく、残り2週間程度の授業が、がさっと無くなっただけで終わりました。スーホの白い馬の授業が、導入しただけで終わってしまったのは心残りでした。

4月からは瀬戸の私立小学校の立ち上げメンバーになることが、この3月の時点で決まっていたので、あと1カ月しかいないこの学校でやれることは、もうありませんでした。
しかたないので、教室内のありとあらゆるところを掃除しまくりました。1年生の学年主任の先生に「私、来年度はここの教室使いたいって校長先生に言っておくわね!」って通りすがりに言われるくらい綺麗にしました。

退任の挨拶のとき、職員室でこんなことを言いました。
「私は数年前この自治体の〇〇小学校で正規採用の教員をしていました。ただ、日々疲弊する働き方に思うところがあり、退職してベトナムに行きました。それも結局続かず、色々あって戻ってきました。講師という立場でこの学校に入ったとき、自分の中で、以前とは違う、持続可能な働き方をしようと思ってスタートしました。そんな形で働いていても、多くの方が感謝してくれましたし、「どうすればそうやって効率良くできるのか」と聞いてくださる先生もいました。この雰囲気の中であれば、これからも楽しく教員という仕事ができるなぁと思わせてくれる、ありがたい3か月間でした。4月からは瀬戸に行き、新しい私立小学校の立ち上げというプロジェクトに関わります。どんな未来になるかわかりませんが、その前にもう一度公立小学校という場所で働き、やっぱり教員って楽しい仕事だなと思わせてくれたことに、とっても感謝しています」

今でも、このときに6年生の学年主任をされていた先生とはつながりがあり、いろんな情報交換をしています。
退職の際には焼肉もおごってもらいました。

教員の「安定性」って、ずっと続けられることじゃなくて、いつでも戻って来れることなんじゃないかなと思う

このへんの「いつでも公立学校の先生に戻ろうと思ったら戻れる」という自分の中のセーフティネットは、そのときも今も、自分の人生を軽やかに飛ぶための大切な安心材料になっています。
仕事の中身ももちろん素敵ですが、ずっと続けて給料が上がるという公務員的な安定感ではなく、日本中どこにいても同じ教員免許という資格である程度の給料がもらえるという、こういう別ベクトルでの安定感も、教員の魅力だなぁと思っています。

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