2005年秋:中間テストの勉強が嫌すぎて、高2の秋に逃避行動をとった結果、志望校が愛知教育大学になった話
教員という仕事を選ぶと、「先生になろうと思った理由は何ですか?」と聞かれることが多いです。
教員採用試験の面接でも「志望動機」として聞かれます。
今日は高校2年生のやまだ青年が、愛知教育大学を受験しようと思った話を書いていきます。
TOP写真は高校生の写真を使いたかったのですが、ぱっとPCで見たところ一番若いときの写真が6歳くらいでスキーツアーをしてたときのやつしかなかったので、かわいい6歳のやまだ少年を載せてみました。癒されてください。
愛知県の西側、尾張地方の進学校と呼ばれる高校に通っていたやまだ青年は、特に将来の夢を明確にもたないまま高校2年生の秋頃をむかえていました。このくらいの時期になると、進路指導という名の大学選びが少しずつ始まり、だんだん模試を受けるようになってきました。
模試には志望校を書く必要があり、全国の大学など全く知らないけれど、なんとなく自分が得意な教科っぽい名前がある学部を選ぶような不毛な進路選びをしていました。
中学校を卒業したときは、飼い猫が死んでしまった悲しみを胸に「獣医になるんだ!」的なことを言っていましたが、高校1年生で壊滅的に勉強をさぼったので、その後は積み上げ式の理系科目が破滅的な点数になっており、全くもって巻き返しができそうにないとあきらめていました。というより、獣医になるという希望事態が、そのくらいの「なりたい」だったのでしょう。
その後は、「建築士になる」的なことを言っていたような気もしますが、別にこれといって建物に感動したわけでもなく、作りたい構造物があったわけでもなく、単純にLEGOが好きで、LEGOで家を作っていたくらいの話でした。
そのときは、「教員」という仕事は、むしろ選びたくない仕事でした。
理由は、両親が教員だったからです。
もう少し突っ込んで言うと、家の中で教員として働く両親を見ていて、「大変そうだなぁ」としか思っていなかったので、こんな大変な仕事は、あえて別に選びたくないなぁと思っていました。
二人とも同じ自治体の別々の学校で働いていたので、家庭内でも度々「こういった課題があるときに、そちらの学校ではどのように対処しているか」的な相談が行われていました。もちろん子どもには、具体的な話はさっぱりわからないのですが、仕事の話をしているときはとにかく険しいイメージが私の中にあり、大変なんだなぁと思っていました。
両親も、特に私に対して「教員になるといいよ」とか、「教員は楽しいよ」みたいなことを言うことはありませんでした。
そんなこんなで、特になりたいものもなく、勉強は壊滅的でした。得意科目を1つくらい作っておかないと、部活で周囲の仲間に馬鹿にされるという進学校っぽい理由で、世界史だけは100点を取ろうと、とにかくマニアックなところまで暗記するという状況です。そんな高校2年生のやまだ青年は、志望校の欄に「歴史学科」とか「世界史学科」とある大学をとりあえず片っ端から書いて模試を受けていました。特に行きたい大学があったというわけでもなく、一番判定がよさそうだったからそうしていました。当時の進路指導ってそんなものだったようにも思います。
そんなおり、学内の中間テストがあり、テスト週間になりました。
特に勉強をしたくないなーという心境なのですが、全く何もせずにゲームや漫画というのも気が引けるなぁという感じです。
テスト2日目くらいに、午前中テストを受けて午後帰宅しました。本当は3日目のテスト科目の勉強をしなければいけないのでしょうが、とにかくやる気になりません。何か勉強を「しない理由」を探していたところ、その日の朝に父がこんなことを言っていたのを思い出しました。
「あー、今日は学校公開日だなぁ。大変だわ…。」
ピコーンとひらめきました。
学校公開日ということは、学校を公開しているので、担任の先生の関係者である私がいってもいいはずです。
父の勤務校までは、自転車で30分ほどの距離。今から出れば、午後の授業開始に間に合いそうな雰囲気がします。行って授業を見て、帰ってきたら、3時間くらいの時間はつぶれます。そしてなんとなく「有意義な時間をすごしたから、テスト勉強はできなかったけどしょうがないよね!」という論理が通りそうなイベントな気がしてきました。
そこからは、持ち前の思い立ったら即行動!爆速行動力を発揮して、自転車に乗り、父の勤務校に到着すると職員室に行きました。そして「山田の息子なのですが、父の教室はどこですか?」と質問し、驚かれながらもニコニコした職員の方に父の教室まで案内してもらいました。
教室に入ると、父はめっちゃくちゃびっくりしていました。ちょうど他の保護者の方も続々と集まってきていたタイミングでしたが、「え!山田先生の息子さん??」みたいなザワザワが発生していました。
ただ、学校公開日なので、まぁそんなものかという雰囲気にもなってました。
そこから小学校4年生の算数の授業を参観しました。
そこで、色々と納得しました。
「あー、日中子どもたちと、こんなに楽しそうな時間をすごしているのか。だから家でどれだけ大変そうでも、この仕事をずっと続けているのか。大変なことがあっても、魅力もたくさんあるんだろうな。」
こう自分の中で消化できたとき、今まで「なりたくない」と思っていた教員が「なってみてもいいかもしれない」、「授業をする毎日は楽しいかもしれない」に変わっていきました。
社会科の教員であれば、私がとりあえず得意科目にしている世界史で突破していくこともできるので、そういった意味でも目指しやすい選択肢でした。その次の模試から、志望校の欄には「愛知教育大学 教育学部社会科専攻」を書くようになりました。
高校生のときは、とりあえず職業として教員になれるかどうかよりも、まずは教育大学に合格できるかどうかという観点でしか見ていませんでした。その後大学に合格してから、「それで、教員ってどんな仕事で、どんな力が必要なんだっけ?」ってことをやっていくことになりました。そのあたりはまた別の機会に…。
こんなきっかけで、一旦は志望校を「愛知教育大学と書き始めた」というのが、教員というキャリアを目指したスタートです。ただ、この時点で「こんな先生になりたい」というロールモデルイメージはまだありませんでした。さらに最終的には、結局そういったものはもたずに、自分の内面に「先生としてどうあるべきか」のようなことを考えて現場に立っていった感じになります。
こんな感じで、高校2年生から、思いついて行動して、その後の人生をきゅっと進路変更してきた人生です。
振り返ってみると面白いです。
▼思いつきの連続でベトナムで働いた話▼
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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