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2017年6月:日本の公立小学校を退職して、ベトナムハノイで日本式インターナショナルスクールの小学校教師になり、ベトナム人小学生に日本語で授業をすることになる経緯の話。

愛知県で無職をしています。
やまだしょうです。

2024年7月、37歳のときに私立小学校の副校長を退職して無職になりました。次に何をするのか決まってないので、今は時間がたっぷりあります。
これから何をするのかを考えるため、また色々と声をかけてくださる方に、「で、やまだしょうって何をしてきた人間なのか」、「どんなことを考えているのか」を知ってもらうために記録を残していこうと思い立ちました。

今回は、自分の人生の中でもとっても特殊で、経緯についても質問の多い、ベトナムハノイにある日本式インターナショナルスクールで、現地採用の外国人小学校教員として単身ベトナムに渡ることになった話を残したいと思います。

つらつら書いていたら6000字近い文量になってしまいました。
お付き合いいただけると嬉しいです!


新卒勤務2年目にして、近々公立小学校を退職するだろうなと感じた話

まず、私は愛知教育大学の大学院を修了し、最初は愛知県の地元公立小学校の教員になりました。大学院生の間に1年間韓国の教育大学に留学していたので、大学には計7年通い、教員になったのは25歳のときでした。一般的に新卒は22歳でなることが多いので、少し遅い新卒という感じでした。
地元の公立小学校の教員になって2年目、小学校1年生の担任をしているときに、「公立小学校の教員という仕事を、自分が60歳の定年まで続けることは無いな」と直感めいたものを感じました。
当時の上司には申し訳ないですが、担任から教務主任や教頭、校長とキャリアが進んでいくことに全くあこがれも魅力も感じなかったからです。
現在の日本の公立小学校の先生達の働き方や、それを取り巻く様々な発信を見ていて、その直感は正しかったなと思います。

ただ、公務員としての教員ではなく、子どもと向き合う『担任』という仕事は楽しく、子どもの成長を感じたり、どうすればもっと楽しく実りのある授業になるのだろうかと考えたり、学校行事を魅力的なものにしていったりすることは好きでした。だから、そういった仕事に集中するために、正規採用という立場ではなく常勤講師という立場で、1年契約で学校を転々としてみようと思い立ちました。
常勤講師であれば、例えば教員組合の仕事であったり、大学同窓会による研究関係の仕事であったりということに時間をとられることは無くなります。また、自分が納得する学校運営をする校長でなければ、1年経ったら次の場所に自分自身が移れるというフレキシブルさも魅力です。さらに、私は中学校免許は社会科をもっている教員なのですが、思えば愛知県の実家と、韓国の学生寮にしか住んだことが無く、社会科の指導をする以上、日本中いろんな場所に住んでみたいと思ったのも理由です。

ベトナムダナンで飲食店経営者Hさんと出会う

そんなことを考えながら、すごしている日々の中で、大学のときから仲の良い男友達「Jくん」と2人でベトナムのダナンに海外旅行に行くことになりました。今からちょうど10年前、2014年の夏のことです。
当時担任していたクラスに日本人とベトナム人のハーフの子が在籍していて、なんとなく夏休み中にベトナムに行ってきたというと喜んでもらえるかなーという理由で選んだ行先でした。

Jくんとは、いつもノープランで旅行をする仲だったので、そのときのベトナム旅も、ダナンのリゾートホテルを1週間予約だけして、何も調べずに飛行機に乗って現地に行きました。
ダナンの海は本当に素晴らしく、リゾートホテルらしく海が見えるプールもあり、朝食もおいしく大変満足なホテルでした。が!、26歳の男性二人が、ただリゾートホテルのプールでぷかぷかしていても半日で飽きました。正直2日目にはJくんとお互いに「もうプールいいよね、何で貴重な夏休みに、むさくるしい男とプール入ってんだろう?」となってきました。

これはいよいよ1週間は無理だろうということで、急遽周囲をインターネットで調べて、ダナン市内にHISの出張所を見つけました。さらに、周囲にはフエという古都があり、日帰りツアーでベトナムの史跡巡りができることもわかりました。その後タクシーで20分ほど走り、ダナン市内のHISにたどり着きました。そこでツアーを予約しようと思っていたところ、40代後半くらいの日本人男性、Hさんに話しかけられました。

「え?君たちそんな若いのに、ツアーでフエ行こうとしてるの?無い無い無い!!ちがうでしょ。ツアーってのは不便を受け入れられない人が、高いお金払っていくものでしょ。君たちみたいな若いうちは不便を楽しまなきゃ。何のために男二人でベトナム来てるの?そこの駅で切符買ったら10分の1くらいで買えるよ。高校まで英語習ってきたんでしょ?伝わらなくてもがんばって切符買って行ってこいよ。」

なぜ出会った瞬間におじさんに酷評されるのかとも思いつつ、頭のどこかで「あー確かにこのおじさんの言う通りだなぁ。なんで俺たち守りに入ってたんだろう」と納得してしまう自分がいました。
そして、おじさんの言う通り、明朝最初の電車でフエに行ってみることにしました。
さらに、夕食はHさんの経営するお店で、一緒に飲むことになりました。一旦ホテルに入り、男二人でプールぷかぷかを再開しましたが、その夜は予定ができたことと、おもしろいおじさんの話を聞くのが楽しみで、ポジティブなぷかぷかになりました。

海外で成功したHさんが教えてくれたこと

Hさんの店はビジネスホテルの最上階、オーシャンビューの立地にありました。ロケーションが最高です。聞くとベトナムのハノイやホーチミンも含めて7店舗ほど経営しているということでした。私はHさんにこんなオファーをしました。
「自分がこれまで生きてきた中で、こうして海外で飲食店を経営して成功している人に会ったことがありません。これまでどんな人生を歩んで、最終的に今私の前に座って話をしてくれているのか、あなたの人生をまるごと語ってほしいです。」

Hさんは楽しそうに色々と教えてくれました。今思い返せば、40代の成功した男性に、20代の若者が憧れと共にする質問としては、スマッシュヒットの質問だったなと思います(笑)。

・英語が話せるようになりたくて、アメリカの高校に留学し
・留学中にサーフィンに没頭し
・サーフィンが好きだと海が好きになり、海が好きになると魚が好きになり
・魚が好きな日本人はアメリカで寿司職人をしがちで、カリフォルニアで寿司を握りはじめ
・寿司職人をしていたら、自分よりよっぽど技術がある50代のベテラン日本人寿司職人が、経営者の判断で簡単に職を失う瞬間を目の当たりにして
・その結果、労働者ではなく経営者にならなければ自分の人生は生きられないと思い
・日本に戻ってきて開業するも、鳴かず飛ばずで
・でもアメリカにいたときの仲間がベトナムに進出するタイミングで一緒にベトナムに出たらヒットして
・今はサーフィンをしながら、暇つぶし程度に働く毎日

一通り人生を語ってくれたHさんは、「で、君たちは何者なの?」と聞いてくれました。そこで自分は小学校の教員だということを話しました。すると「それは面白い、すぐにダナンに来て日本人学校を作ってほしい。俺が今困っている。子どもを入れる学校が無い。」と言ってくれました。

「君たちが日本の学校を辞めようと、いくらでも代わりはいる。その時、その一瞬、学校は困るとか言うかもしれないが、公務員である以上すぐに補充される。それは君の働き方が、取替えの効く歯車の働き方だからだ。今、俺の話を聞いて、ベトナムに行こうかなと思う学校の先生はほぼいない。さらに行こうかなと思った後、実際に行動してベトナムに来る先生は、先生全体の0.01%くらいの確率になるだろう。そういう人生を選んだほうがいい。そうすると君は、他に取替えの効かない人材になり、君の価値は高くなる。繰り返すが、俺は今困っている。求めている人のところに来るのがいいよ。」

ガツーンと心にストライクしました。まだ教員2年目で、なんとなく将来はこのまま公務員はやっていないだろうなと思い始めていた自分でしたが、まさかそんな経験も実績もない自分に「ベトナムに来て日本人学校を作ってくれ」と言い出す人に出会うとは思っていなかったし、そんな選択肢は自分の中に全くありませんでした。
翌日、ダナン駅で寝台車のチケットをとってフエに行くことになるのですが、その車中ではJくんと「日本人学校ってどうやったら作れるんだろうね」と特に情報も無い中で正解のない議論をずっとしていました。
そして、ダナンとフエを旅行し、こうして現地に生きている日本人やベトナム人を見て、やけに幸せそうに見えて、ベトナムで生活することに憧れるようになりました。

ベトナムで学校作るってどうしたらいいの?って思ってもわからないから、とりあえずブログを書きはじめたら、ダナンの保育園の見学に行けるようになった話

日本に帰国した後、ベトナムへのあこがれは日増しに大きくなり、退職してベトナムに行きたいと思うようになりました。元々、退職して常勤講師になり、日本中を転々としようと思っていたので、その1つ目として海外を選ぶということは、自分の中でも自然な選択でした。ただ、「どうすればダナンに住んで日本人学校を作れるのか」というのは全くの未知数で、どこから手を付けていいかわかりませんでした。
そこで、「とりあえずインターネットを使って協力者を探そう」と思い立ち、アメーバブログで自分の教育観を発信していくことにしました。当時担任をしながら、子どもたちを朝教室に迎え入れるために、毎日黒板にメッセージを書いていました。そのときの教室の様子を見ながら、子どもたちに届けたい言葉を考えて書いていたのですが、それをそのままブログにもアップして、「こんな思いで小学校の先生をしている自分が、ベトナムのダナンで先生をしたいです。誰か助けてください」というメッセージを添えました。

3か月ほど更新しつづけていると、一人の女性、Mさんがそのブログを見つけてくれて、メッセージをくれました。
聞けばダナンでベトナム人が経営している日本式の保育園で、保育士をしている日本人の方でした。しかもその人は岐阜が実家で、愛知に住んでいる私とは隣同士です。一時帰国の際に一回話をしてみようかということになりました。
岐阜でランチをしながら、
・自分は今教員をしているが、一生公務員として働くイメージがもてないこと
・ダナンでHさんと出会い、日本人学校を作ってみないかと誘われたこと(MさんもHさんのことを知っていました)
・ベトナムに行ってみたい気持ちはあるが、まだ教員としての経験も浅く、人脈も全くないので、どうすればいいのかはわからないこと
・ベトナムに行けそうなのであれば、「安定した公務員」的な働き方には全く未練はないので、区切りのいいところまで働いてベトナムに行きたいということ
を相談しました。

Mさんは、「私が最初思ってたより本気そうだから、よかったら私が務めてる保育園を一旦紹介してあげるから、次にダナンに来るときに連絡をちょうだい」と応えてくれました。
そして春休みの3月、再度一人でダナンに旅立ち、たんぽぽ保育園という日本式保育園の見学に行きました。ベトナム人園長先生はとてもやさしく、1週間ほど園長先生の家に泊めてくれて、ダナンの色々なことを教えてもらいました。

またMさんは、滞在中にダナンにいる教育に関係しそうな日本人を集めて、教育飲み会を開催してくださいました。JICAの派遣などで思ったより多くの日本人が、教育関係の活動でダナンにいたし、ダナンにいればこうして日本人という共通項でコミュニティに入れるのだということを学びました。
Mさんとは今もつながりがあり、Mさんが現在岐阜県で開いているNPOのキャンプイベントに子どもと参加するなど交流があります。

近々、ハノイに日本式インターナショナルスクールスクールというものができるらしい

このダナンでの教育飲み会の中で、文科省を退職して独立し、行政書士をしながらベトナム進出のサポートをしている方とお話しをする機会がありました。ハノイで日本式のインターナショナルスクールの立ち上げプロジェクトに行政書士の立ち場で関わっているということで、まだ日本人の教員を募集しているということを教えてくださいました。
私の希望としてはダナンで生活をしたかったのですが、現状何もつながりが無い中で、ダナンで生活をつくっていくイメージが持てず、悩んでいたところでした。一方でそのハノイの学校であれば、これまで自分が日本で行ってきた、小学校教員の経験やスキルを活かしながら、ベトナムに住んで生活をつくっていくことができるイメージがもてました。
そして、ハノイでもベトナムに住んでさえいれば、今までリーチしなかった人々と出会えるだろうとも感じました。
ダナンで日本人学校を作ってほしいと誘ってくれたHさんには申し訳ない気持ちもありましたが、全く手がかりが無い状態で来るよりも、一旦はベトナムで教師をしている状態を作ってみることで、次へのつながりがあるだろうと思い、ハノイにあるJIS(日本国際学校)に見学に行くことにしました。

翌年2016年の夏休み、初めてダナンではなくハノイに降り立ちました。そしてJIS(日本国際学校)の見学に行き、当時副校長(校長は日本の大学の先生なので、副校長が実質現場の校長職)のSさんに面接をしてもらいました。
日本での経験や、ベトナムに来たいと思った経緯などをSさんに話し、その後年内に無事内定をいただきました。
ベトナムに入るためには日本ではメジャーではない予防接種(肝炎や腸チフスなど)をしていったほうがいいという情報を得て、1年かけて予防接種も行いました。
そして、日本で3月に無事そのとき担任をしていた6年生の卒業式で送りだし、自分も3月末で退職しました。

私が日本国際学校に就職することになった2017年の6月には、私を面接してくださった副校長のSさんは既に退職していて、その後Sさんはなんとダナンで日本人補習校を作っていました。
(補習校は、日本人学校が無い地域で、日本人の子ども達に学習のサポートを行うために作られるもの。補習校の規模が大きくなると最終的に日本人学校になる場合がある)
なんだか不思議なご縁だなぁと思いつつも、まずはハノイで自分がどこまでできるか試してみようと思い、日々をすごしました。

▼JIS(日本国際学校)のHP▼

JIS(日本国際学校)の立ち上げに近い空気を吸ったことは、その次のキャリアにもつながっていく

JIS(日本国際学校)は、開校して2年目のスタッフとして仕事をすることになりました。そこでの詳しい仕事の内容は、また別の機会に書くとして、開校2年目というまだ変化の激しい組織の中で、海外で働いたという経験は、私にとってその後のキャリアを形づくるためにとても大切なものになりました。就職して2年目には管理職である教頭職も任せていただきました。
その後ベトナムから帰国すると、愛知県で新設の私立小学校の開校プロジェクトに関わっていくことになるのですが、ここで新設校で得た経験を活かすことができました。まだそのときは、常に今に集中して生きていて、そのように未来が「つながる」というイメージはもっていませんでした。

振り返ってみると「行動力+人との出会い」が全て

以上が日本の公立小学校で教員をしていた20代の私が、ベトナムハノイの日本式インターナショナルスクール、JIS(日本国際学校)に就職することになった経緯です。
振り返れば、全てが「行動力+人との出会い」によるものだなぁと感じています。どこかで行動を辞め、どこかで人との出会いが無ければ、ベトナムに行くチャンスをつかむことはできなかったでしょう。
その後も、このような行動と出会いによっていろんな場所に行き、いろんな人と話して、いろんなご縁で仕事をすることになっていきます。

現在も自分の仕事の作り方は、そういった方向で進んでいくものだと考えていますので、これを続けていきたいと思っています。
この文章を見て、やまだしょうって人間は面白そうだなと思ってくださった方は、ぜひ連絡をください!

ここまで読んでくださってありがとうございました。
最後にスキを押していっていただけるととっても嬉しいです!
よろしくお願いいたします。

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