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Fighting Sprits


1. アントニオ猪木

燃える闘魂 アントニオ猪木が亡くなった。その生き方は多くの人々に影響を与え、そして、この世を去った。

アントニオ猪木から思い起こすことは、世代によって異なるかもしれない。
アントニオ猪木は言わずと知れたプロレス界の大スターである。しかし、40歳代半ばである私は、アントニオ猪木がリングに上がる姿は過去の映像としてしか知らない。
むしろ、国会議員として湾岸危機の中にあったイラクに行き、人質解放を実現したり、スキャンダルを巻き起こしたりといった、プロレス以外の姿しか知らない。

一方で、アントニオ猪木の詩「道」であったり、「元気があれば何でもできる」といった言葉は、世代を超えて記憶に残っているであろう。「1,2,3,ダー」というパフォーマンスを真似していた男の子は多数いたはずだ。

私は、タバスコを日本に初めて紹介したのがアントニオ猪木であると思い込んでいたが、これは事実ではなく、日本で広めたというのが正しいそうである。いずれにしても、日本の食卓にも影響を与えた人物であることも間違いないようである。

ところで、アントニオ猪木といえば、テレビの中で、観客やファン、いや、そうでなくても一般人に対してビンタをしていた姿を思い出す。そこで行われていたことはなんだったのであろうか。

2 被害にならない関係性

人が人をビンタしたら、刑法上は、暴行罪が成立する(怪我をすれば傷害罪が成立する)。状況によっては、警察に逮捕されることもあるだろう。
そうでなかったとして、明らかな暴力であるから、非難される行為であることには間違いない。

しかし、アントニオ猪木のビンタを犯罪だという人はいない。では、アントニオ猪木がやっていたことは、なんであろうか。
もちろん、アントニオ猪木も、いやがる人に対してビンタをしていたわけではない。そのような意味では、ビンタをされる側の承諾・同意があったことになる。
法律上、被害者の承諾や同意があった場合に、暴行罪・傷害罪が成立するかどうかは、最高裁判所の判例などもあるが、ここではあえて立ち入らない。
法律を離れて、アントニオ猪木と、ビンタを求める人たちとの関係性について、考えてみたい。

アントニオ猪木にビンタを求める人は、気合いを入れてほしいという人もいたであろうし、面白半分、怖い物見たさという軽い気持ちの人もいたであろう。
ビンタをされるというのは不快なことではあるが、あえてこれを求めるということは、アントニオ猪木は自分にビンタをするに値する(許すことのできる)人物ということである。
これは、親や上司に叱られて、それを受け入れるという構図に似ているかもしれない。しかし、それだけであろうか。
アントニオ猪木とビンタをされる人は、親や上司との間のように固定された関係性にない。そこにあるのは、立場的な関係性を超えた尊敬(リスペクト)であろう。

ある時代まで、親(とくに家長)、学校の教師、会社の上司、地元の有力者などが、コミュニティの成員からの尊敬を集め、コミュニティの核となっていた。
そこから様々な社会状況の変化を経て、コミュニティの機能、コミュニティ内のコミュニケーションのあり方は激変した(その経緯は別項に譲りたいと思う)。

アントニオ猪木は、その過渡期に活躍をした。戦後日本の復興期に始まったテレビ放送を、街角で地域住民が群がって見ていた。アントニオ猪木がプロレスデビューしたのが1960年であり、ちょうど、テレビのカラー放送が本格化した年でもある。1960年の白黒テレビの世帯普及率が44.7%。そこから5年で一気に90%を超え、カラーテレビに入れ替わっていった。
アントニオ猪木は、戦後日本の有数のテレビスターである。コミュニティの核としてではなく、国民的スターとして尊敬(リスペクト)を集めた。そのような意味で、国家大のコミュニティが成立していた最後の時代だったのかもしれない。それは、国民国家が成立し得たことの裏返しでもある。

戦後75年を経過した現在、家庭も、会社も、地域もコミュニティとしては空洞化し、空虚な役割だけが残っている。尊敬とは無縁のコミュニティの殻だけが残っていると言えるかもしれない(当然、尊敬される親も教師も上司もいて、その存在を否定するものではないし、家庭も、会社も、地域もコミュニティとしての実質的な機能を残している場合もあるし、実際に私の周りにもいる)。
このことは国民国家大のスターがもう成立しえないことを表してもいる。私たちは新しい形の尊敬すべき人を必要としているのではないか。それは、多様なコミュニティチャンネルの誕生、新しい働き方を実現する企業、危機から脱しようとする地域、多様なあり方を受け入れた家族の中の、あるいは、コミュニティ相互で生まれる実質的な尊敬である。それは、役割的なものから強制される尊敬からの解放でもある。

アントニオ猪木は、晩年でもアントニオ猪木であった。病床に伏せる中でも、力強い言葉で私たちを励ましてくれていた。まさに、「燃える闘魂」である。そのFighting Spritは永遠でも、私たちは、大きな存在を失ったといえよう。(続く)


土橋 順(Chief Development Officer)

2004年東京大学卒。2008年に弁護士登録し、山梨県内の法律事務所にて勤務する。その後、2015年に弁理士登録。独立して法律特許事務所を設立する。 2017年には山梨県弁護士会副会長を務め、様々な会務に関わり、現在は刑事司法をテーマにした授業を学校に広めるため活動を行っている。甲府青年会議所に入会後、日本青年会議所に出向し会員拡大と人材育成に携わる。ファシリテーションの浸透が、人々に健全なコミュニケーションをもたらし、明るい豊かな社会の実現に繋がるとの信念のもとCCAに参画している。

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