beautiful world
beautiful world #1
あの雲の先に、いるの、かな。
呆然と立ち空をみて。
煙突の先の煙が空の色に混ざっていく瞬間、儚さと、悲しみの色でぐちゃぐちゃになる。
「…翠」
「大丈夫心配しないで」
そう隣にいた母に伝えた。
割と裕福な家庭に生まれ
割と裕福な育ちをしたけれど
小学校も中学校もまわりの友だちと一緒に公立へ進んだ。
だって身の丈知らずだし。
だって裕福なのはわたしではなく父であり、父が築いた会社だから。
まもなく会社が傾き、大学は諦めようかと思ったわたしの背中を押したのは父だった。
「翠なら大丈夫。なにかあっても翠にはナイトがいるんだよ。」
と。
なんと浅はかな言葉だっただろうなんて今となっては思うけれど、わたしはその言葉を鵜呑みにし、大学へ進学、そして父は病で倒れあっけなく他界した。賢明な看護で疲れた母も今は病院のお世話になっている。
わたしに残されたのは莫大な借金。
父の会社の負債、従業員の未払いの給与。
わたしの見た雲の先には、雨雲に変わる前の空につながっていたんだろうか。
✳︎✳︎
「あれー?今日翠ちゃんいないのぉ?」
「おいおい、指名するような店じゃないだろ?」
「えーなんでー?何で今日いないの?」
昼のランチタイムがめちゃくちゃ忙しかったらしく、今日の夜のシフト入りの時間を変更したらしい。
「じゃ、待ってればくるんだね」
「お前さぁ」
彼女の笑顔は僕のこころの栄養だ。
待って、その笑顔をみれるのなら僕はいくらだって待つ。
いくらだって待つよ。
いくらだって。
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beautiful world #2
あーまた来てる…
なんて裏口から僅かにうかがえるカウンター席から見えた事実にげんなりした。
馴れ馴れしい、といえば
人懐っこい、と言われ。
近い、といえば
このくらいが丁度いいと言われ。
お金だけ落としてくれれば結構です、といえば
翠ちゃんの笑顔みれてこの値段は安い!破格だよ!と言う。
私に何を求めているのかはわからないけど、この客は常連であり、お得意さまであることは確かだ。
「あ!翠ちゃん!!」
私がエプロンの紐をきゅっと結びながらキッチンへ入るとすぐに声かけてきた。
「また、ですか?」
「また、だけど?」
この人お金には苦労してないんだろうな、とか考えてしまう。ある意味羨ましい。
「翠ちゃんは昼もここで働いてるんだねー」
「関係あります?」
「うん!」
くったくのない笑顔で、うん!と言われたらぐうの音もでない。
「相変わらず、毎日幸せそうですね。」
「1日の締めに翠ちゃんに会えるしね。」
私はほかのお客さんの空いてる皿をさげながら、カウンターに座るその人の後ろ背を見た。
女の子より女子力高めな顔してるのに背中はしっかり男子。
「ねー翠ちゃんはさ、大学で何専攻してたの?」
「くだらない客をどう帰らせるか、を専攻していました。」
言うねぇ、なんて店長に言われながらも私は大学を卒業した意味なんてどこにもないと腹黒に思った。
在学中に他界した父。
病気でふせっている母。
奨学金という大きな借金と父の残した負債。
わたしが超優秀だったら話は別なんだろう。でも私は日々の生活でいっぱいいっぱいすぎて就職活動もうまくいかず、元々学生のころからバイトで入っていたこの店にお世話になっている。
だけれども、それだけじゃ足りない。
最近は、今しかない若さを借りて夜の仕事を増やそうかと思っている。
「翠ちゃんはどこの世界にいるの?」
ふと振りかかる言葉にハテナがつく。
「僕さ、いつも翠ちゃんみてて思うんだ。キミはどこの世界にいるんだろうって。同じ時間にいるのに、同じ空間にいるのに、ばっさり切り離された時空にたまにいるよね。」
なにを言ってるのだろうか?
「お客さん、飲み過ぎですよ」
「僕はお客さんじゃないよ?慧だよ。」
「お名前のことを言ってるのではなく…」
そういうと、その人は、ほらまた、どこかの世界に閉じこもって、といい、さっとお勘定をして店をでていった。
✳︎✳︎
翠ちゃんは僕には懐かない。
翠ちゃんは僕のペットではないから。
翠ちゃんは僕を特別扱いしない。
翠ちゃんにとって僕はただのお客さんのひとりだから。
だけど
翠ちゃんはあの日、あの煙突の先からでる煙と雲が同化する瞬間だけ涙を流した。
僕だけが知ってる。
僕だけが。
ひとりで強くなろうとして
ひとりで頑張りすぎて
ひとりで違う世界に閉じこもって。
誰とも馴れ合うことなく
誰とも分け合うことなく
ひとりだった。
翠ちゃんは僕のことを知らない。
当たり前だけど知らない。
でも僕は知ってる。
翠ちゃんが正しい道へ進むように照らしてあげるんだ。
翠ちゃんが疲れたら立ち止まるようにしてあげるんだ。
翠ちゃんがもし僕と同じ時空にいたら
僕は迷わず翠ちゃんの手をとるんだ。
こっちだよ。
ここに、隣に僕は居るよ、って。
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beautiful world #3
ここ、よね…?
如何にも繁華街的なネオンに立ちくらみがしそう。
ご機嫌なサラリーマン。
煌びやかで、肌露出高い女の子。
タクシーに乗り込んだお客様に愛想よくわらってお見送りしたのに、タクシーが走り出した途端、冷めた顔に戻ってビルに吸い込まれていった。
わたし、大丈夫かな、と不安な気持ちがバッグを持つ手に力がはいる。
「あれ? キミ、ひょっとして今夜面接予定の子?」
ちょっと金髪ががった髪の男の人が声をかけてきた。声がでない。
「えーっと、名前は確か… 翠ちゃん」
うぶだねぇー声になってないよ、でもそのくらいがいいんだ、とわたしに近寄り肩に手を置き、ビルの中にエスコートされた。
冷や汗がでる。
その手を退かせてほしい、なんて思いながらも反論できない自分が情け無い。
「で?どーして翠ちゃんはウチで働きたいの?」
黙る私。
髪をボサボサっとかきながら、その男性は言った。
「いいよ、言わなくて。だいたいみんな同じだしね。どうする?一度働いてみてから決める?」
お試しがきくのか、コクンと頷きわたしは奥に連れていかれて着替えとメイクを施された。
「うわぁ。翠ちゃん。綺麗だよ」
✳︎✳︎
なーんで、無断でバイト休んだのかなぁ、なんて僕が心配することじゃないけど。
翠ちゃんの居ない空間に払う価値はなく、僕は早々に店を後にした。
「あ、ありがとうござい、まし、た」
金持ってそうなジジイたちから金を巻き上げる世界の女の子は嫌いだ。
そのジジイを乗せたタクシーが僕の隣を過ぎていって、その先に見えたのは見間違えるくらい綺麗にメイクされた、そう、翠ちゃんで。
思わず僕は手を口にあててしまった。
どういうことなのか、
そして隣の黒服の男が翠ちゃんに馴れ馴れしくボディタッチするのが腹立たしくて。
こんなことするキャラじゃないのに
こんなことするような子ども地味た僕ではいつもはないのに、僕は声をあげた。
「…翠ちゃん!!!」
ハッと我にかえる表情で僕を見つけたあと、知らないふりをして俯いた。
「翠ちゃん!」
もう一度名前を呼ぶ。
知らないと思うんだ。
どうしてキミの名前が翡翠の翠の漢字を選ばれたことを。
知らないと思うんだ。
本当は僕と同じ“慧”という字をつかって、スイ、と読ませるはずだったことを。
でも今はどうでもいいや。
とりあえずくすぶっている場合じゃないし。
とりあえずこんなくだらない光景見たくもないし。
ツカツカと歩みよって。
「帰ろ」
と手を取った。
「お客さーん、彼女と話したいならお店に…」
馬鹿か。
アホか。
んなの関係ないし。
真剣な眼差しで僕は翠ちゃんをみつめて。
その後すぐに、こう言った。
「だめだよーこんな遊びかたしちゃ。」
いつものようにお茶らけて。
いつものように軽く。
にこっと笑って
その掴んだ手を放さずに。
僕は手の力まではお茶らけられなかった。
ぎゅっと。
強く。
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beautiful world #4
「…ちょ、っと離し、て!」
なんの権限があってこういうことをしているのか理由すらわからないけど、それ以前に掴まれた手首が痛い。
「…あ、」
正気に戻ったのだろうか、顔が一瞬だけほんの一瞬だけ我にかえったような表情をみせた。
「なにしてくれてるんですか」
「あんな店で働いてどーするの?」
「関係ないです」
「翠ちゃんらしくない」
余計なお世話だ。
ただの客に、たとえ上客でも余計なお世話だ。
「だいたい…
と喉からでた言葉に被せるように
「翠ちゃんは僕の名前知ってる?」
知るわけないよね、なんて笑いながら手首を解放した。
「僕はね。慧っていうんだ。慧。」
初めて聞く相手の名前。
そして、仏教用語のひとつで心所(しんじょ)、つまりは心のはたらきのひとつなんだけどね、メンタルファクターっていえばもっとわかりやすい?とか。
知らない。だから何?と言いたかったけど
「彗星のスイに心をつけて、慧、なんだよ」
と。
あまりにも出来た話だとは思ったけど、思い出した。遠い昔、まだ父が存命していたあの頃、私の名前を、翠とつけた理由のひとつとして彗星の彗を使いたかったけれど心なき、忙しい人生を送ってほしくなくて、翡翠の翠からつけたと。
私が生まれた時、庭にさくミモザの花の萌黄色が綺麗で、それならば翠とつけようと決めたのだという。
そんな幸せに満ちた萌黄色と私と父の思い出は、残された巨額な負債をどうにかしてという今の私の無力さで消されてしまった。
「翠ちゃん?」
ぎゅっと握りしめた拳に力がはいる。
「思い出したくない思い出を思い出させてくれてどうもありがとうございます」
そう、強く言い放って私はその場から離れた。
慣れないヒールと足の痛みなんて流れ落ちる涙の方が悔しくて、悔しくて。
✳︎✳︎
「うん、そう、そうしてくれる? なるべく早く、よろしくね」
走り去ってしまった翠ちゃんの姿が見えなくなった後、僕はそう伝言を携帯に残した。
連れ去ってしまった店に罪滅ぼしのために入店したら、あの女か男かわかんないくらい可愛い顔した男が僕の隣に腰を下ろした。
「お客さーん、困るんですよー。あんなことされたら」
でも、彼女はきっと金のツルだからといい、クビにはしないと約束した。不本意だけどこれはこれでセーフティネット張っておくんだ。
✳︎✳︎
お父さん、どうしてこんな人生にしてくれたの?
ねぇ、お父さん。
写真の中で微笑むお父さんは、沢山の友人たちに囲まれて幸せそうだった。
そんな幸せそうな顔すら目視できなくて、写真立てを伏せた。
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beautiful world #5
初日からやらかしてしまった私にお咎めはなかった。どうやらあるあるらしい。
時給はいいし、飲む振りすればいいし、黒服スタッフのリョウさんはとてもいい人だし。
「翠ちゃんが思うようにお金稼げるならそれが一番だから」
そう言ってくれて、ぎごちない私の肩にポンと手を乗せて、今日も稼いでね、と笑ってくれた。
女の世界だからそれなりの派閥はあるけれど、No.1と言われる先輩から何故か慕われているおかげで何とか生き延びている。
「リョウだけは注意しなさいね」
そう一言だけ。その忠告がいかなるものなのかって何となく私にもわかる。危ない、でもとんでもないフェロモンが漂うリョウさんは危険だ。
日に日に濃い化粧も慣れてくる。
肩を出しても違和感すら感じなくなっていく。
でも何処かで現実という名の防御線をはっているせいか、メイクを落とすと直ぐに私に戻れたのだ。
そして明日のいつものバイトのシフトを確認した。
✳︎✳︎
「えーーー今夜もいないのぉー?」
「お前何しにここにきてんの?メシ食うためじゃないの?」
「違うよぉ〜」
呆れられるのは慣れてる。
「なんか事情あるっぽいしね。こんなバイト代で縛る権利はないしさ」
そう言いながらも、何処かで心配しているような顔をみせた。店長にしてみればかわいい妹なのだろう。
「翠ちゃん居ないと飯も美味しくないんだよね〜」
「悪かったな」
ふたりしてふざけあうように言葉を交わし僕は本当の自分を出さない。
かちゃっと裏口から聞こえた音と、ちょっとだけ飲食店には似合わないいい匂いをまとった翠ちゃんがいた。
ぺこっと頭だけ下げて裏のカレンダーをめくりながら手帳に何かを書き記していた。
新しいバイト先はどう?なんて店長はさりげなくきくと、それなりに、と答え、明日はランチから入るので宜しくお願いしますとまた頭を下げた。
お金に困ってるのなら、といいかけた店長には親心というか兄のような気持ちで、なんら冷やかしもなかったはずなのに、翠ちゃんは違った。
「お金に困ってるなんてレベルじゃないし、生きるのだけで精一杯だし、息する度にお金だけが消えていくなんて生活から早く逃れたいだけです」
こんなに強く主張したことが以前あっただろうか。ごめん、と店長は謝ったけど雰囲気は最悪だった。
「翠ちゃん、言い過ぎ。この人そんなつもりじゃないの知ってるでしょ?」
「あなたにはもっと関係のないことです」
関係、ない、か。
そうだ、よね。
「もういいですか?」
へ?と間抜けな声をわざとだして、あーごめん、ごめんと柔らかく笑ってみせた。
✳︎✳︎
お世辞にもおしゃれとはいえない昭和感たっぷりのコーポ。
私の今の住処。
時は令和になろうとしているのに、ここだけはとっても時間が穏やかに流れていて、設備には満足いかなくても私は貧しくとも今の暮らしには不自由さは感じていない。
二階へ続く外階段の下にスーツを着た人が立っていた。
似合わない、この場に。
目も合わさずにうつむき加減で横を通りすがろうとした時声をかけられた。
「翠様、藤内 翠様ですよね?」
え?
「突然のお伺い大変失礼いたします」
その言葉を頭に、難しい言葉を並べられた。
ちょっと待って。なんなの?
「ですから、翠様のこれより先の…」
「ちょっと、待って」
聞いてない。
何も聞いてない。
お父さんはそんな見ず知らずの人にわたしの未来を売ったの?
「翠様は当家の許嫁としてお迎えする所存です。」
いや、だから、なんなの?
「お父様が残された負債は全て当家が負担し、お母様の入院費も全て…」
私、売られたん、だ。
まさかこんなことが我が身に降りかかろうなんて思ってもみなかった。
「あの」
「はい、なんでしょうか?」
「断ったらどうなりますか?」
「断る選択肢はございません。」
「ございません?顔も名前も知らない人に私はお金のために売られるってことでしょ?そんな私の人権はどこにいっちゃったのよ??」
鼻息荒くしていたら、バッグの中の携帯が鳴り響いた。
こんな時に誰?
[もしもし?]
「…リョウ、さん?」
[ひょっとしてお取り込み中だった?]
わからなくて、なにがどうなってるのかわからなくて、わたしはその携帯を握り締めながら声を押し殺して泣いた。
[泣いてる?待って、今どこ?]
そう言い残して通話終わった携帯を握り締めた。
ねぇ、お父さん。
私の未来は誰のものでもなく売られていくの?
そんな未来だと話すことなくわたし達を置いて行ったの?
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beautiful world #6
リョウさんが駆けつけてくれたとき、スーツを着た男性は、あぁ、キミか、と言葉を漏らした。
知るはずのない相手なのに、やけに色んなことを調べあげていて身震いがとまらない。
「翠ちゃん、いこ。こんなおっさんと関わる事ないから」
そう言って私の肩を抱き、牽制するかのように睨みをきかせた。
「翠様、どうか、あなたの未来をよくお考えになられてください、どうか…」
頭を深くさげてその男性は立ち去った。
「一体どういうこと?」
「わたしにもよくわからなくて」
物騒だから鍵ちゃんと閉めてね、といい、私を玄関前まで付き添ってくれた。
「ありがとうございます」
「なにもしてないよ」
「なにもしてない?してるよねー?してる、してるー」
階段下から聞こえたその声に、またお前かよ?とリョウさんは怪訝そうな表情を浮かべた。
またお前かよ、なんて頭かきながらリョウさんは、大丈夫だからと、私に目配せして早くおうちの中に入りなって。
「てかさー。どーしてこういう時に僕じゃないの?」
「知らねーし」
「おにーさんには聞いてないよ。僕は翠ちゃんに聞いてるんだ。」
まっすぐな視線がぶつかった。
まるで私がその視線そらさないことを知っていたかのように、まっすぐに。
「私だって、私だって…
わかんないことだらけで、
私だって、私だって、
そう言葉を繋ごうとしていたのに、私の目から熱い何かがほろほろと落ちてきて、私のエナメルシューズに弾くように落ちた。
「とにかく、翠ちゃんは、
なんて私をかばう言葉よりも先に階段を駆け上がってわたしがドアノブに伸ばしている手を掴んで、彼は言った。
「僕にすればいい。理由なんてどうにでもなる」
ゆっくり
まるで時間が止まったかのように、ゆっくり、そうゆっくりと腕の中に引き寄せられて。
「翠ちゃんは僕が守るから」
どんな言葉にもなびかない私が、誰かに守られるなんてそんな言葉で落ちもしないのわかりきってるのに、小さな子どもあやすように、いいんだよ、誰かを利用すればいいんだ、いいんだよ、僕をおもいっきり利用して、って。
涙で視界が歪む。
父が亡くなったときにみた空のように、雲がにじむ代わりにわたしのおでこに、温かい唇がそっとおかれた。
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beautiful world #7
わたしの未来はわたしのもの。
そう思ってたわたしが馬鹿だった。
わたしの未来なんて
もうとっくに売られていたんだ。
わたしの未来は
もう、誰かのもの。
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ふーーん。
なんてもっともらしい相槌をうってみせた。
「じゃあ、なに、翠ちゃん断れないの?」
じゃあ私が抱えている父の負債をどうにかできるわけ?って喉元まで引っかかった言葉を飲み込んだ。
借金チャラにするから、許嫁としてどこの誰かもわからない人と結婚とかありえない。そんな身売りするくらいなら細々と借金返していくし、贅沢なんてしないし、結婚も考えない。
誰かに寄り添って生きていくなんて想像もつかないから。
「なんかさー、結構な老人だったらどーする?それはそれで…
なんて笑いながら、さぞ他人事のようにいう目の前にいるその人の言葉がちくり、ちくりと刺さっていく。
「名乗らないところが怪しいし?」
「ふざけないで」
「ふざけてなんかないよ」
僕を利用すればいいっていったじゃん、と伸びっとした背中がいつもより大きく見えた。
「僕が代わりに許嫁になるよ。あーでも、役ね。そういう演技。で、相手に納得してもらうの」
は???
「なに?ご不満?僕、結構こう見えてぇー」
馴れた手つきで私の顎をくいっと持ち上げたから、私は反射的に左手で頭にグーを落とした。
「…いっ、てぇーー」
当たり前だ、
何が許嫁だ!!!
私は目の前で起こったことだけでも頭いっぱいなのに。
「でもさ?」
ほんとに、僕を利用してくれていいんだよ、と。
何が目的?だというと、まぁ人助けとか?まぁ、あとはボランティア精神?とか?とおちゃらけてみせていたけど、すごく真面目に私に言うの。
「自分の未来、自分で切り開きなよ」
って。
こくんと頷く私に、そうでなきゃ!と溢れる笑顔が眩しすぎた。
✳︎✳︎
「大丈夫、だった?」
「お気遣いありがとうございます。それなりに、はい」
それなりに、なんていう翠ちゃんはいつものように出勤してきた。お金に困っているというよりは、早く完済したい、そう割り切ってのことだ。
「リョウさんも変なことに巻き込んでしまってすみませんでした」
「いや、俺はどーってことないし。でも翠ちゃんのほうが…」
それなりになんとかなってます、とニコッと笑ってみせてくれた。
多分、この子すごく無意識にやってるんだろうけど、その笑顔反則だって最近気がついてしまった。
「ねぇ、翠ちゃんはさ?」
え?と振り返りきょとんとした顔をみせた。やっぱり無防備で、やっぱ反則。
「リョウさん?」
「困ってるならちゃんと言って。
あーほら、店の子に傷つけるわけにはいかないし、さ?」
「ご迷惑かけてしまって…」
「あ、そういう訳じゃなくて」
まいったな、ってポツリ言葉が溢れた。
「翠ちゃんと、奴(アイツ)ってどういう仲?」
「昼間のバイト先の常連さんです。」
「それだけ?」
「それだけです。それ以上でもないし、チャラチャラしてへらへらして、ペース乱れるので結構迷惑してるんです。」
それなのに、僕にすればいい、僕が守るっていうんですよ、って困った顔をして話してくれた。
「辞めたほうがいい」
「やっぱりそうですよね?」
「辞めな」
「はい」
「そうじゃなくて、アイツにかかわるの辞めてほしい」
本音はいつしか音になる。
本音はいつか僕の気持ちと比例して相手に投げてしまう。
「リョウさんはやっぱり皆に優しい、だから勘違いされるんですね。先輩たちが言っていた意味がわかりました。」
は?
「リョウさん。ありがとうございます。支度しますね」
ちょ、まて。
なんなんだよ。
ザマアミロって俺を嘲笑うアイツの顔が開店前の重い扉の隙間からみえた。