アダルトチルドレンの私が、克服の糸口を掴めた話
28歳、会社員。自分がアダルトチルドレンであると自覚したのは、2年ほど前。社会人になってからだった。
自分の生き辛さの原因が、アダルトチルドレンからくるものだとわかった。そのことで、いくらか「ああなるほど」と気持ちは救われたものの、すなわち克服できたことにはならない。考え方のクセが染み付いているからだ。でも、自覚してからは、克服するためにもがき始めることができた。
もがく中で、最近、自分が強い見捨てられ不安を抱いていることに気づき、とある本を読んだ。
そこでたくさんの気づきを得たので、記録として残したいと思う。
過去は過去だし、いま私がこの歳までちゃんと生きてこられたのは少なからず親のお陰であるのも事実。
けれど、親に見捨てられる不安を抱きながら、ひどいいじめにあっても誰にも相談せず、人に上手く甘えられないまま、自分を上手く許すこともできないまま、不安や悲しみを抱え込んできたのも事実。
事実は事実として捉える必要がある。
いま私がどうしようもなくつらいときは、そのときの傷がうずいて増幅されているということ。28歳の私ではなく、昔の自分がフラッシュバックしているようなものだということ。そのことに気付かされた。
頭の中で子供の私を思い浮かべてみると、いまもさみしそうな、不安げで、こちらを信用しきれずに疑うような目で私を見ているみたい。笑いたい、仲良くなりたいと思いながらも、どこか遠慮しているような、そんな幼い自分の顔が思い浮かんだ。
歳を重ねて、外面の繕い方が上手くなっただけで、中身は今もほぼ、あのときのままだ。よくここまで、生きてこられた。
何度も、もう疲れたな、と思いながら、それでも頑張って成果をあげてきたし、自分なりに必死に生きてきたということなのだけど、この本を読むまでそういう風に振り返ったことはなかった。
私は、ちゃんとしていないと存在価値がない、認めてもらえないと思い込んでいる。自覚はある。趣味で大好きなピアノ以外は、基本的には人に認めてもらいたくて、頑張っているようなものだ。
私が「〇〇すべき」と思うようなことがあったとして、それを満たしていないのに、子供っぽい態度でかわいがられるような人が私は苦手だ。そういう人に対しては特に、私より認められている様子を見るのがとてもつらい。つい自分と比較して、羨ましいなと思ってしまう。それは多分、自分には無い子供の要素を見つけて、欠けてしまった部分の傷が痛むからなのかな、と思う。
28歳になった今、心の中に今も癒されたくて待っている子供の自分を、抱きしめてあげられるのは私しかいない。それは、私の運命であり、私の責任だ。
いつか私の子供に、次は私の子供に、全力でたくさんの愛情をそそげるように。
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