知念大地 近況(2022.10.30,11.2記)
近況
最近写真家の石川竜一と正面性について話す機会があった。といっても衝撃的に与えられただけなのだけど。
当初、踊りは観客やカメラの位置関係なく踊られていたことを思い出したし、竜一と沖縄で撮影した時には撮る側に踊り手が放置されている(要求なく、唯、見られている)感じで、踊りの正面性(線的な繋がり)が消滅し、ぐちゃぐちゃになったことも思い出した。本当の踊り手の身体は見る人と踊る人の狭間にある為、最近、見る人の意識状態が限定されている中での踊りが多かったのだとも気づかされた。
「大地の感覚と身体ははじめからそう言ってたけどな。」
と竜一から言われた時、頭では理解がまだ追い付いていなくて、でも身体はむちゃくちゃ喜んでいた。
身体から、「もっと遊べるんだ」と言われた気がした。その事を竜一に伝えると、「問題ない!」という衝撃的な返答が返ってきたのだった。
*
岡見に向かう踊りは、自分自身を「身体・肉体」と思う事はなく、眠りの地平の静寂が降り立つ場として関わる地点にあった。
その地点は僕にとって、かつてない最奥だと今も思っている。体内に下るよりも果ての、距離が無くなった場所。
その闇体を気軽に舞えることと、正面性についての感動的な何かが、本番前、身体の中で、静かに混じっていた。
「しんしんしーんin岡見」。
それは自然に起こった。 踊りから踊り方が無くなっていく。
どんどん自由になっていく。
踊りが無くなったって世界は続いていく。
そんな身体に風も雨も心も眠りの粒も、用意より速く、むしろ先に到着していて、身体は遊ぶ速度でそれらを駆け抜けていた。
恐らくは多くの人が捉えられないであろう確かな始まりの原子を心地よさの狭間に埋めて。僕はそれを感じた。
岡見公演が終わり、身体はまた全く新しいフェーズに来ている。
それは、友人のゆたかが自分自身を見つめる為に描いた自画像から着想を得たものだった。
誰にも見せる予定を持たない自画像を見た。
離れがたい。それは、ただ、両者の痕跡と、ともに、在るような。
この自画像の様に身体を観客の面前に置けないか。(そこで起こる現象は、超正面性、超在る?、むしろ穴、に思われる。)
自画像の魅力のひとつに、絵の中から真っ直ぐにこちらを捉える眼がある。
自画像を観るものは、見られているようで、100パーセント、見ている。
生の身体で、それが可能なのか。
それは踊り手の視線を「消す」という技法の話じゃない。
「自画像」の作業に取りかかる。危機にたたされた現場から(だって踊り方わからんもん!)、からだが弾き出した初めての意識状態に気づかされた。
これについては長文になりそうなので、いつか書けたら書こうかな。
この「自画像」はまだまだ発展していく兆しがある。それを、かなり、具体的に感じる。
ふと、踊られている自画像を一糸まとわぬ裸でやりたい、と思った。そしてその後、強くそう思った。
全身が痕跡・ナウの様な。
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裸体で自画像を舞いたいと思った時、ふと、これは新しい裸なのかもしれない、と感じた。
生きてきた痕跡を唯、唯、眺める自画像のように置いて晒す正確性を身体に持ち得て扱い、提示する裸。
放つことでも停止することでも、籠る(降る)ことでも現せない生の自画像。 場を狂わせるでも宇宙を引き受ける点でもない、手放された静かな裸・痕跡。
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自画像の作業に取りかかりはじめた時、叫び(採集・精算)としての肉体ではなく、生きている・生きてきたたったひとつの肉体を愛おしいと思った。
そしてその時、竜一のポートレート写真についても思った。
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以前に知覚された正面性が身体からどんどん薄まっていることにも驚かされる。
身体は気づきによってしか変容を開始しない。
やがてはたどり着く場所にたどり着くのだと思う。
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生の自画像は痕跡を提示するが、その痕跡はまだ生きている。そして運ばれる痕跡という「裸体・まるごと」は、あらためて、わたしたちの肉体に、温かいおしぼりを渡すような、やさしい恥じらいと、あるがままへの勇気を復活させるのかもしれない。
痕跡は肉体に感染し、宿り、生殖する。
痕跡は廃墟。 廃墟は憧れを生まない。
廃墟ははじまりであり終わり。
そして、ただの塵。
PS
小さな廃墟は還ろうとする。
本当に、生きようとする。
・裸についてのメモ・
裸を着ちゃいけないんだ
裸に「なって」はいけないんだ
全て捨てて残ったもの
だから、裸も脱がなきゃいけない
裸を手放さなきゃいけない
まだ、残っているもの
最後に残ったものの、記録
痕跡・ひらき
飾るのも、裸もおんなじで表層にすぎない
残されたものでなければ、それはむなしい。
上塗りや誇示は本質をあらわさない。
*
力(欲)と身体(力でないもの)の違い
廃墟から廃墟へ(形や技、情報ではパフォーマンスとして消費されてしまう)
踊りのように裸体を扱うこと
(やりたいことを、やらないこと)
(外に持たれないこと)
野外や街中での裸は問題意識に感染してしまう。
屋内での裸はわたしたちに感染する。
廃墟としてのしんたいは絶対に淋しさや孤独に帰らない。欲望やあたたかさ、楽しさに帰らない。
帰るべき場所へ、帰る。染まる。
ヌードモデルとの違いを明確にしなければならない。生の真っ只中であるはず。
廃墟に火を灯す・放つ?のがダンスなのかもしれない。
どんな裸体でも、晒すということは、受け入れるということ。自らを宿す、たったひとつの肉体。
2022.10.30
「Dance」
友だちの遺骨抱いた時に見た白昼夢をある絵の具だけで直感だけをなぞるように描いてみた。子供たちが沢山風のなかを走っていたけど、何故か一人も描けなかった。なんでこの色かもわかんない。最後に真ん中に椅子を描きたくなって書いた。そしたらその子からこちら側に吹く風にみえて、オレはその子に向かっていて、でも、人間は誰もいないんだ。なのにあの時の風が絵から感じられて、赤い風みたいだって思った。
何回もあの白昼夢を描いてきたけど、どれも唯の情報みたいに感じられた。全体を詳細に描こうとすると、何かがうしなわれるのかもしれない。そして直感が生きる時、裏側に果てしないとどかなさみたいな、くやしさ、さびしさ、みたいなものがあるのかもしれない。絵は自分でないものを通しわからないままに描いたあとに、何かがわかるのかもしれない。
数日前、友達のゆたかに教えてもらったマティスの絵をずっと見てる。クリムトの描く女性と、マティスの描く女性は奥行きが全然違う。マティスは表層を描いても、そぎおとしても、何かを描いているんだ、と思った。ピカソとマティスも人間や景色への眼差しがちがう。マティス、好きだ。モネも。
引き込まれるけど、それが何かはわからない。
けど、わかるから見るんだ。
この絵のタイトルははじめ、「D」だった。DieのDであり、たったひとつの目の前だから大地のDでもあった。でも、その全部が(それはつまり、あの岡部の土手も、風も昊も土も虫も子どもたちだった僕らも、その手を引き見守り闘った先生たちも、親も、、)一緒くたになってこの絵は、存在していた。だからDanceだと思った。
2022.11.2