見出し画像

公益に資すること。それは長続きするビジネスの秘訣でもある

公益経営者インタビュー 第2回
岡野バルブ製造株式会社 代表取締役社長 岡野 武治(おかの たけはる)さん

福岡県北九州市の門司区で創業し、100年にわたって高温高圧バルブの製造・保守を手掛けてきた岡野バルブ製造株式会社。日本初の国産バルブメーカーとして、産業の発展とともに成長してきた老舗企業です。2024年にはCNCと協業し、コミュニティナース事業を開始しました。なぜBtoBのものづくりメーカーが、地域に向けた事業を始めたのか。5代目社長の岡野武治氏に、背景にある思いを語っていただきました。(2024年12月)


■ 100年続く、日本初の国産バルブメーカー

岡野バルブは、1926年に創業した高温高圧バルブの製造や保守を行う企業です。バルブとは、流体(液体や気体)の通路を開けたり、締めたりして、流体の量や方向、圧力を調整する機器のこと。私たちの製品は、火力発電所や原子力発電所などの発電用のプラント(設備)で使われています。

本社は、福岡県北九州市の門司区にあります。門司には海軍の軍事基地があり、立地として恵まれていました。岡野家はもともと関西を拠点としていましたが、そこから流れ着くようにこの地で創業し、約100年が経ちます。

会社の原点は、私の曽祖父にあたる、創業者の岡野満が抱いた危機意識にさかのぼります。彼は英国のボイラーメーカーであるバブコック・アンド・ウィルコックス社の西日本地域を統括していて、技術者でもありました。

数百社のボイラーを販売し、業績も上がっていましたが、ネックになっていたのがバルブです。ボイラーの構成部品のなかでも、バルブは最も故障する頻度が高かった。その上、輸入に頼っているため、壊れてもなかなか手に入らない。船便なので、3〜4か月待たされることもザラでした。
 
安定してボイラーを使えるようにするには、国産でバルブを作るしかない。そう考え、曽祖父は国産バルブの製造を志し、岡野バルブを創業します。そして幾度にわたる研究と試作の結果、創業6年目の1932年に日本で初めて高温高圧バルブの国産化に成功します。

バルブメーカーとして始まりましたが、戦時中は、軍需品の製造も手掛けていました。門司工場は海軍の管轄下に置かれ、さらに陸軍からの要請で行橋市に工場を新設します。戦争が終わると、門司工場で小型バルブ、行橋工場で大型バルブと素材を製造する二拠点体制を確立します。そして再び、バルブ作りに注力し始めました。

■ 会社の方針転換を迫られた「3.11」

岡野バルブは、日本の産業の発展とともに歩んできました。会社が大きく成長したのは、高度経済成長期です。電力需要の増加に伴い、発電所が次々と設立されました。そこで、発電所向けバルブの需要が急伸します。

特に多かったのが、原子力発電所からの注文です。1966年に創業した日本初の商用原子力発電所である東海発電所では、日本初となる蒸気用バルブを全量納入しています。その後も、発電所が新設されるたびに、最新鋭のバルブを納めてきました。

発電所で使われるバルブの製造には、特に高い技術力が求められます。世界を見渡しても、こうした技術を持つ企業はごくわずかしかありません。そのため、国内外から引き合いをいただき、それに応える形で、ニッチトップ企業としてシェアが拡大してきました。これまで、世界の発電所に納入されたバルブは世界60カ国、100万台以上に及びます。

長らく「バルブ一筋」だった私たちですが、ある出来事をきっかけに、大きな方針転換を迫られます。2011年の東日本大震災です。国のエネルギーに関する政策が変わり、特に原子力発電のシェアが激減しました。それに伴い、当社は事業構造を根本から見直すことになりました。

そこからの10年は、改革の連続です。目先の売上が減るので、利益を出すために支出を減らさなくてはいけない。製造業には、もともと「カイゼン」という効率を追求する仕組みがありますが、よりドラスティックに事業の構造を変えていきました。人事制度を刷新したり、DXを推進して生産性向上を図ったり。そうした積み重ねで、10年で大幅なコストダウンをすることができました。

新たな収益の柱を作る取り組みを始めたのも、この頃です。バルブは引き続き当社の強みですが、それだけに頼っていては、外部環境の変化に対応できない。それは、震災以降に私たちが痛感してきたことでもあります。そこで、「未来型ものづくり企業」というスローガンを掲げ、新しい技術の開発や実装に乗り出しました。

創業時から根ざすものづくり精神もあって、現在では原子力発電所の廃炉関連のロボットや、最先端のドローンなど、さまざまな技術が生まれています。既存事業以外にも進出し、DX支援やコワーキングスペースの運営など、新しいビジネスにも挑戦しています。

新規事業を始めて数年ほど。直近では数字もついてきていて、売上のほぼ100%がバルブだった状態から、直近の決算では総売上80億円のうち、10億円が新規事業となりました。今後も、さらに新規事業の比率を伸ばしていきたいと考えています。

■ CNCとの協業は「即決」だった

2024年からスタートしたコミュニティナース事業も、企業としての成長の芽を探る試みです。かねてより交流のあった、歴史系のポッドキャスト番組「COTEN RADIO」を運営する深井龍之介さんに矢田さんを紹介してもらい、CNCのことを知りました。はじめてコミュニティナースの話を聞いた時は、「まさに自分たちが求めていた仕組みだ」と感じたのを覚えています。

岡野バルブはBtoBのメーカーで、お客さんのほとんどは県外や国外です。極論を言えば、地域への貢献が直接事業に関係するわけではありません。ですが、門司で100年間ビジネスをしてきたこともあり、地域への恩返しになるような取り組みがしたいと考えていました。
特に、直近の日本を見ていると、どうも政治や行政だけでは地域が抱える課題に効果的にアプローチしきれていないように感じます。とはいえ、企業としてアクションを起こしたいものの、バルブメーカーである当社には、それを実現するノウハウも組織体制もありません。CNCとタッグを組めば、それが実現できると直感しました。

自分が信頼する深井さんからの紹介ということもあり、協業も即決しました。矢田さんの、とにかくパワフルでバイタリティあふれる様子も印象的で「この人なら、100%やりきってくれるだろう」と確信しました。
 
現在、コミュニティナース事業は、CNCと社内の担当部署が連携して進めています。公民館やカフェ、郵便局など街なかのコミュニティをつくる施設でコミュニティナースが声がけを行い、地域住民の方々との交流を図っています。

当社に寄せられる相談は、平均して月15-20件ほど。一人暮らしの高齢者の見守りの強化に関する要望や、地域の伝統行事の存続を希望する声など、様々な相談が集まっています。優先順位をつけながら、プロジェクトチームで一つひとつの解決に向き合っているかたちです。

なお、相談件数に加え、地域住民との接点数や具体的な支援プロジェクトの進捗などをKPIとして追っています。半年ごとにプロジェクトの定量評価を行い、定期的に振り返りながら事業を進めています。

といいつつ、基本的な進行は現場のコミュニティナースに任せ、私は細かい進捗には口を出さないようにしています。現場のことは、現場が一番熟知している。重要な意思決定が必要な場合は、目を通しますが、オペレーション面は現場の自由な判断に任せています。

■ 地域の課題解決の「ハブ」になる

コミュニティナース事業を始めて半年ほど経ちましたが、すでに手応えを感じ始めています。とりわけ強く実感するのは、「地域との関係の質的な変化」です。

もともと、私たちは門司の代表的な企業として、地域の方々に認知はされていました。ですが、「雇用を生み出している」という印象が強く、おそらく「地域と強い結びつきがある」という印象ではなかった。一方で、コミュニティナース事業を始めてからは、地域の課題解決の「ハブ」としての役割を期待されつつあるように感じます。

一企業としてできることには限界がありますが、早めに課題を把握することで打ち手の幅は広がります。その意味で、一度「ハブ」として地域の課題を集約する役割は、意義があることではないかと考えています。

もう1つ、事業を始めて気が付いたのは、「企業こそ、地域の課題解決のファーストペンギンになれる」ということです。基本的に、政治や行政は平等性を重んじるので、個別の事例ごとに対応するのが難しい場合が多い。

一方、企業であれば、経営の判断で「この時期にリソースを投下してみようか」と、スピーディに判断することができます。この身軽さは、民間ならではの強みです。そして、実際に成功例が作れれば、次は行政による水平的な支援につながるかもしれない。そんな考えのもと、岡野バルブが持つアセットをフル活用して地域の課題に向き合っています。

ゆくゆくは、公機関ともうまく連携しながら、一つひとつの課題をクリアにしていきたいと思っています。

■ 戦国武将に学んだ「公益」への向き合い方

なぜ、そこまで地域との関わりに力をいれるのか。時たま聞かれることがありますが、私にとってはごく自然な流れでした。それは、幼い頃から「門司の未来は岡野さんにかかっている」「門司は任せたよ」といった言葉をかけられて育ってきたからかもしれません。

街に出かければ、お店や病院などでも「岡野さんの坊っちゃん」として声をかけられる。近所の方と交流したり、正月の際に100人以上の従業員が我が家を訪れ、一緒に座敷で食事を取ったりしていたことも、鮮明に覚えています。そうした中で、幼心に「自分はこの街や会社の未来が期待されているんだ」と意識してきました。

とはいえ、当時社長だった父からは「好きなことをしていい」と言われていて、会社を継げと言われたこともありません。ですが、不思議と自分が置かれた「定め」のようなものを自覚していて、反発心を感じたことは一度もありませんでした。むしろ、自分の代でこの会社、この街をさらに盛り上げたい、大きくしたいという思いのほうが大きかったです。

子どもの頃から、歴史が好きだったのも関係しているかもしれません。なかでも戦国武将や三国志の物語が大好きで、歴史本や漫画を読み漁っていました。「信長の野望」などのシュミレーションゲームにも熱中し、自身で戦略を考えながら国を大きくしていくことに面白みを感じていました。

歴史になぞらえれば、現在の地方に根ざした老舗企業は、当時の武将や大名のような存在だと言えるかもしれません。自社のある土地こそが、自分が守るべき領地であり、公益に資することが創業家の使命である──大げさに聞こえるかもしれませんが、そんな表現がしっくり来ます。

自社の利益ばかり追求するのではなく、その土地の利益を見つめ、人や地域が元気になることにリソースを使う。その結果として、自社にもリターンが返ってくる。そういう循環が作れたら美しいなと、私は考えます。そのために、必要な投資は最大限していく所存です。

■ 織田信長に着想を得て事業改革

地域と自社にきちんと利益を還元できる経営者になりたい。そんな思いのもと、大学卒業後は新卒で岡野バルブに入社しました。先代までの経営者は営業畑が中心でしたが、私は「バルブの現場を知っているバルブ屋の社長になりたい」という思いから、現場への配属を希望しました。震災前の福島第一原子力発電所でも作業員として働き、10年ほど現場での経験を積みます。

その後は、営業や管理部門なども経験し、2012年に取締役になりました。以来、10年以上経営に携わるなかで、常に意識してきたのは現状維持に甘んじず、未来に向けた投資をし続けること。冒頭でお話ししたコストダウンや新事業の仕込みもそうですし、海外案件への参入なども積極的に行いました。

無理だと言われれば言われるほど、乗り越えたくなる性分でもあります。「利益率が低い」という理由から、海外案件を増やすことに反対する社内の声もありましたが、企業の今後を考える上で重要な投資になることを丁寧に説明しつつ、実現に向けて動いていきました。

国内の需要だけに頼るのではなく、マーケットを広く取ることは、長くビジネスを続けていく上で欠かせない戦略の一つです。

2020年に社長になってからも、さまざまな施策を実行しました。特に力を入れたのが、織田信長に着想を得た事業部制の導入です。

織田信長は、各地の領地や城を管理する家臣に対して、権限を移譲し、自主性を重んじる体制を築いて安定的な統治を行った武将として知られます。当社でも、事業部制を導入し、事業部長が自身の権限で事業領域を自律的に経営できる体制を敷きました。

さらに、報酬制度でも完全な能力成果主義も取り入れ、年間の月給換算で最大7ヶ月分のボーナスを支給するなど、成果に応じた還元を実施しました。これも、織田信長のマネジメント手法からインスピレーションを受けたものです。

年齢や役職に関わらず、きちんと成果を上げた社員にリターン還元する。これにより、社員のモチベーションと生産性が大きく向上しました。

■ 昆虫観察で学んだ自然の摂理

経営判断において、常に意識しているのは「自然の流れ」です。趣味である麻雀にも通じますが、技術や知識だけで判断するのではなく、その場の空気を読み、流れを理解するようにしています。とりわけ新規事業など、新しい領域に踏み出す時はなおさらです。

「どう空気を読んでいるのか」と聞かれると難しいですが、子どもの頃に肌で感じた自然の摂理がおおもとになっているような気がします。小中高一貫の学校に通っていた私は、地域に同年代の友人が少なく、放課後は一人で過ごすことが多かった。その時間の多くを、昆虫の観察に費やしていました。

たとえば、自宅でカマキリを飼い、そのカマキリの捕食の様子を観察したり、アリの巣の前にエサを置いて、彼らの組織的な行動を眺めたりして過ごしていました。一見、ただの子供の暇つぶしに見えるかもしれませんが、その様子を見て、自然とは何たるかを学んだように思います。
 
組織の形成方法、リーダーシップの在り方、資源の配分、世代交代…昆虫観察をしていると、実にいろいろな自然の摂理が見えます。そして、人間社会も生物の世界と似た法則が存在することがわかる。その時の学びが、現在に至るまで私の直感を支えているような気がします。

■ 単一の競技から総合格闘技への移行

これからは、どんな業種であれ、単一の専門性だけで生き残っていくのは難しい時代に入っていくと思います。私たち自身も、祖業であるバルブと、ものづくり精神を生かした新事業、この二軸を掲げて、売上をさらに伸ばしていくのが目下の目標です。

そうは言ったものの、これは単一の競技から総合格闘技への移行のようなもので、それなりの覚悟が求められます。簡単なことばかりではないですが、それでも、10年かけてじわじわとシフトしてきた結果、いい相乗効果も社内で生まれ始めています。
 
これまで「バルブ屋だから」と、自分のビジネスの範囲を限定的に考えていた社員たちが、お客様のニーズや課題をより広い視点で捉えるようになってきました。直近でも、既存の顧客向けに、従来のバルブメンテナンスだけでなく、新しい事業の提案を積極的にする様子がちらほらと見受けられます。

前例踏襲、現状維持的な空気が多かった社内で、少しずつチャレンジの風が吹いていることに、確かな手応えを感じています。

地域活性化への取り組みも、そうした自社の今後を考える上での重要な取り組みの1つです。関わる社員に伝えているのは、「企業はこうあるべき」という固定観念から自由になってほしい、ということです。

企業である以上、事業の成功を追い求めることは当然重要です。一方で、本当は必要だと思ったことは、迷わず実行してほしい。「これは企業としての本分を超えるのでは」「売上にあまりつながらないのでは」と思ったことでも、やってもらっていいと思っています。なぜなら、それが企業の将来的な成長にもつながるからです。ビジネスの射程を長く捉える、というのがキーワードになるかもしれません。

ひるがえって日本の人口動態を考えると、多くの地域が人口減少に直面し、活力を失っていくことは避けられないと思います。北九州市も、かつては四大工業地帯として栄えていましたが、今は高齢化や人口流出などの課題を抱えています。
一方で、そこで諦めていては、何も変わりません。ならば、この門司という地域では、活力を保ち、衰退するのではなく、むしろ発展していける地域にしていきたい。地方都市の成功のロールモデルとなりたい。それくらいの気概を持って取り組んでいます。

コミュニティナース事業は、私たちのビジョンを実現する上での重要なピースの一つです。地域に貢献する企業であるためには、地域の声を聞くことがまず大切です。コミュニティナースを通じて地域住民の方々とコミュニケーションをはかり、まずは門司に住む皆さんの幸福度の向上に貢献していきます。

そうして得た視点をもとに創業100年を迎える企業として、次の100年を見据えた挑戦をしていきたいと思っています。


公益経営者インタビューは、Podcast Studio Chronicle代表の野村高文さんにご協力いただいています。ありがとうございます。

編集協力:野村高文(Podcast Studio Chronicle
音声プロデューサー・編集者。東京大学文学部卒。PHP研究所、ボストン・コンサルティング・グループ、NewsPicksを経て、現在はPodcast Studio Chronicle代表。旅と柴犬とプロ野球が好き。

お問合せは「問い合わせフォーム」からご連絡ください。


いいなと思ったら応援しよう!