もう嫌だ
久々のnoteのタイトルがこれなのは釈然としないけれど正直本音としてはこれである。
身の丈に合った生活
あれをやってみたい,これをやってみたいということがないわけではない。楽しんでいることがないわけでもない。でも。
なんだか息苦しい。生きにくい。
今から話すことは本気で悩んでいる人にとっては不快な内容だろうが,もうその言葉以外で表すことができなくなっている。それくらいもう無理になってきた。
ある程度の年齢になってから行きにくいという感情が顕著になったが周囲に聴いてもらえそうな人間がいたかと言われると微妙である。助けてといってもはいはいと周囲は聞いただけで助けてはもらえなかった。
疑いのいきさつ
生きにくいなと思うことは多々あったがなんで生きにくいのかがさっぱりわからなかった。もちろん考えられる理由は全部調べてみた。性的マイノリティの可能性,発達障害の可能性,HSPの可能性,APDの可能性,メンタル系の疾患の可能性。でもどれも該当しそうで該当していなかった。
なんか生きにくいなと思ったのは高校の時だった。思えばあんなぐちゃぐちゃな高校生活でよく生き残ったなというのが正直なところである。授業の内容が全く頭に入ってこなくなり,先生の話すことが全く聞こえなくなった。睡眠不足だったものあるだろうが,多分単純に授業のレベルが高すぎて追いつけなくなったんだと思う。
周りにできることができないってこんなにしんどいんだなとは思った。厳密に言うと前々からその気配はあったが何とか隠していたんだと思う。露呈しただけだ。
周りに溶け込めない中でも無理やり頑張ればいいことがあると思い込んでた節はあったが,生きていくうちにそれが間違いであることに日増しに気づかされていく。多分我慢と忍耐にあふれたあの時代は無駄な時間だったのだ。無意味で浅はかで,そして何の意義もない時間だったのだろう。日々それに気づかされる。
生きにくさをどれだけ言語化しようとしても結局うまくはいかなかった。言語化さえできればもしかしたら助けが得られるかもしれないのに。
本当にあってる?
身の丈に合った生活をしようと今まで頑張ってきてはみたが,それは無駄だったようだ。
結局息苦しいと思っている時点で身の丈にはあっていないようだ。身の丈に合っていたら苦しいわけないのだから。
大人には我慢が必要な時もある。ただ我慢から解かれる時間も必要である。正直今の自分はもう溶けていなくなりそうな予感がする。
だからと言って今すぐリセットボタンを押せるわけでもない。
ただそのうち,近いうちにリセットボタンを押したくなるだろう。きっと気のせいではない。