温かみが分からない
今日言いたいことはタイトル通りである。終わり。
そんなわけにいくか
やっぱりそうなるか…。筆者は過去noteでも挙げているが人の温かみというのがよくわからないままこの年まで生きてしまっている。
温かみって何なんだろう。
結局答えを探しても見つからずじまいだった。
「人の温かみが分からないなんて薄情だな。」といわれるだろうと思ってあまり言わないようにしていた。だがしかし分かっているふりというのは案外きついものがある。
今回のnoteも別にそれが分かったんだ!という話ではない。
冷たいものなら
人の温かみはわからないけれど,人の冷たさならよくわかっていると思う。
例えば誰かが倒れても,そのまま突っ走るしかないときもあることも学んだ。
誰かと一緒に取り組んでも結局技能がついていけなければおいて行かれる羽目になる。
群衆の中にいても話が合う人間がいなければ孤独である。
人間の中にいることで孤独の冷たさと人づきあいのむなしい側面をいやというほど知った。
だから温かみとはその対極にあるものだろうとは思うのだ。
例えば温かみとは
素敵な曲を聞いたときの高揚感,美味しいものを食べて嬉しくなったとき,仕事で成果が出たとき,この辺はどちらかというと「熱さ」と言われるものだろう。
では温かみは?
テレビではよく辛いときに寄り添ってくれる仲間,どん底に落ちたときに助けてくれる家族,このようなもので象徴されている気がする。
こうしてみると温かさというのは「周りが少し冷たい」ことが前提のもののように見える。
辛いときや苦しいときでないとこの温度感は分からない。温かいおでんやお鍋が暑い夏より寒い冬の方が有り難みを感じるのと似ているのかもしれない。
実際のところ
なんとなくこういうものかな?というのはわかったが,実際のところ筆者は友達や仲間のいる温かみをいまいち体感できていない。
もちろん感謝はしているしありがたいことを頭で理解してはいる。
きっと今自分が欲しいのはそのようなものの体感なんだろうな。
その体感を得られるのはいつなのか。
筆者は悶々とする日々である。
こんな風に温かみが分からない人って案外世界には多いのではないか。そう感じる今日この頃だ。
この孤独を共有する方法は,何かないものなのか。
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