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#6 Media Studies)リモート時代の表現手法

オンラインで伝わる展示作品とは何か考えていた。気になる問題が2つできてきた。

Q1:人間は視聴覚だけで満足か?触れたい欲求は超高解像度の映像を見て解消するか?


ただ,事実として視聴覚の複製技術が普及している。そしてコロナ禍2年も終わる中,もうフィジカルで鑑賞しなくてもバズればOKな世界だとすれば,作品の表現はカメラだったりマイクだったりといった記録メディアと不可分になっていくだろう。

そうなった時に,体験の本質は人体の主観的体験というよりも記録装置の主観的体験の方に移っていくのではないか?
そこで重要なことは,カメラに倫理は必要ないということだ。人間が閲覧する時にはすでに,記録されたデータはサンプリングと量子化を超えて安全な状態になっている。

記録メディアに倫理が働かないことで何が可能なのか。つまりテレプレゼンスして宿った人間には人権も倫理的配慮も何もないことはどのような表現や体験を可能にするのか。そこが面白いと思う。
加えて,視覚で世界が最も広く深くつながれている状況にあるのはどういうことか,視覚に注目して見ていくことも興味深い。

Q2:どこまでがマジックとされ「許されず」,どこまでが作品の表現性とされ「許される」のか?


重要なのは人間の認識だろう。美しさと意味,その生成が問われていると思う。

美しさや意味はどこからやってくるのだろう。
記録メディアと作品との間に起こる,記録され遠くの人間に閲覧されるまでを含む
「主観的」な表現の介在。心霊映像やトリック映像など,記録メディアの側を工夫することで対象は「主観的」な表現によってどうとでもなる。意味は取り繕われ,美しさは演出されることが可能だ。
これが道化ではいられなくなってくることが重要だと思う。光学玩具から映写機,そしてエンタメ産業へとつながっていったように,トリック映像は本腰を入れた用途に用いられようとしている感じがする。つまりこれまで「許されな」かった表現が,「許される」ようになっていくのではないか。これはそもそも絶対的客観たる対象の妥当性をどこに求めるかという哲学の問いにまで達する根深い問題だろう。美しさや意味が書き換わる。

そうであるとしても,「どういうものが『強い表現』(すなわちメディア自体がかっこいい,かわいい,綺麗,美しい,気持ちいいなど)なのか」を感じ考えることは常に重要だ。それにもちろん面白い。




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