Club Q オンライン勉強会 「哲学者、加藤和哉さんと哲学対話 Vol.18 芸術(アート)について考える(2022-4-28)」はいかがでしたか?
「感想」
今回は、加藤 和哉さん(東京大学大学院で哲学を専攻)の感想です。
今日も実に刺激的な対話でした。
その中で際立っていたと思うのは、近代的な「アート」概念がやはり一般的なアート理解を強く規定しているということ。芸術に、創造性(creativity 無からの創造)、起源性(originality 始まりであること=前例がないこと)、革新性(innovaition 新しさ)、そして唯一性(uniquness 他にないもの、個であること)といったイメージの連鎖を見る考えです。もちろん、それがこれまで(近代以降)アートと呼ばれてきたものだし、今も主流はそうかもしれません。デュシャンの「泉」にしても、ジョン・ケージの「4分33秒」にしても、それは1回きりのことであって、二番煎じにはたぶん何の価値も見いだされないわけです(もちろん、引用やコラージュ、アイロニーの表現はありうるにしても)。
そういうものを現代人が求めてしまうのは、もしかすると、機械化された、制度化された現代の生活が、わたしたち一人ひとりを、顔の見えない存在へと落とし込んでしまっているから、またそこからの離脱、解放、解脱(エクスタシー)を求めてしまうからかもしれないなどとも思いました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/泉_(デュシャン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/4分33秒
アートの語源のラテン語arsは、ギリシア語ではtechne(technic, technologyの語源)です。それは経験による習熟に何らかの理解や説明能力が加わったものと考えられていました。職人芸、学術などを広く意味する言葉です。それはどちらかというと、目指すべき基準にかなったものを適確に生み出すことのできる習熟であり、同じものを(失敗せずに)生み出す力と考えられています(日本語言うと「匠の技」でしょうか)。一方で、art/techneは、基準に外れたものをわざと作り出す能力でもあるとされています(意図せず、基準外れを生み出すのは、ただの下手くそ)。
また、芸術と今呼ばれているものの歴史を見ると、個を消していく、自然や場に没入していく、あるいは神聖なるものや神秘と一体化していくといったものもあったのではと思います。(ノブコさんがおっしゃっていた)宗教美術とか、あるいは歌舞音曲など・・・。
洋平さんは、たとえば田中泯さんの「場踊り」のようなものをどう思われますか?もはや、これは観客すら必要としないのでは?(といいながら、こうやって「作品化」されて取り上げられるという矛盾はあるのですが・・・)
あるいは、ノブコさんの染色のお仕事においても、芸術的なものを考えないわけではないとおっしゃっていましたが、それは自己表現とか、個の表現とかいうことなのか?そこで、作家の技巧みたいなものが際立ってしまうと、それは着る人にとってはどうなのかとか。
あと中澤さんでしたか(お名前間違えたらすいません)、アートは醜悪なものも表現する、でもそれがフィクションであることに救いがあるというようなことを、おっしゃったのも、もう少し深めてみたい話でした。これは、古来、悲劇の快楽ということをめぐって哲学者が論じてきたところです。プラトンやアウグスティヌスは、その虚構性を批判し、アリストテレスはそこにカタルシス(精神の浄化作用)を見ています。なぜ、人は醜悪なもの、おそろしいものを楽しむのか。
そんな風にさらにいろいろと話を紡いでみたいと思う一晩でした。
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このやりとり、本当か知りませんが、面白いです。
アインシュタインとチャーリー・チャップリンが出会ったとき、お互いに何と言ったの?
アインシュタインはこう言いました:「あなたの芸術で私が最も尊敬するのは、それが普遍的であるということです。あなたは言葉を発しないのに、世界はあなたを理解している」
チャップリンはこう答えた:「それはそうですが、あなたの名声はもっと偉大ですよ。世界中があなたを賞賛しているのに、誰もあなたを理解していないのですから」
出典:translation of Sara Scarano's reply
・Petrosky Tomioさんからのコメント
>デュシャンの「泉」にしても、ジョン・ケージの「4分33秒」にしても、それは1回きりのことであって、二番煎じにはたぶん何の価値も見いだされないわけです
この作品を見せられたときの私の感想は、モンテーニュの中の、ケシ粒を投げて百発百中で針の中を通すことができる男を思い出してしまいました。
その男はその技量を誇りにして国王にその技量を見てもらいました。国王はその腕の素晴らしさに感嘆して、他の人間にはできないような技量をお前は持っていると言って、家来に向かって、その男に褒美としてケシ粒2俵を取らせと言ったそうです。ケシ粒が足りなくて、そのような素晴らしい技能が無くなってしまうのは惜しいというのです。そして、モンテーニュのその節の題名は「無駄な技量について」でした。
私は、自分の指導学生に研究で何かの課題を選ぶきの指針として、いつもこの話をしています。誰も考えたことがない、あるいは誰もやったことがない、私がこれを初めてやって見せたとのだと言うことをやって見せただけでは研究は十分ではないのだ。そんなことで、詰まらない事柄はこの世の中に五万とある。ただ単に、みんなが気が付かなかとをやった、できないことをやったとか、あるいは、誰もやってみたことがないことをやって見せたと言う以上の何かを追い求めることが必要なのだと、この例を話して、考えさせているのです。
ところが、所謂モダンアートなるものには、ただ単に、誰もやったことがない、自分が初めてだと言うことで満足している作家が多いと常々感じております。あっと、思うけど、その馬鹿馬鹿しさを皆が理解するから、二番煎じが起こりようがない。
歌舞伎でも、奇を衒うと言うは芸人のやって
はいけない筆頭になっていると聞いております。奇を衒えば評判になることに手っ取り早いですから、そんなもの芸ではないと言うのです。
評判になっていると言うことで、それが芸術だと言えるのか。モンテーニュはそれを問いかけているようです。
また、上記の二人の作品を讃えている人たちがいると言うことに関して、私は皮肉にもまたモンテーニュの一節を思い出してしまうのです。その一節とは、エセー』第二巻第十二章「レーモン・スボンの弁護」の一節です。
「アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者がむずかしさをよそおったのは、空虚な事柄に箔をつけてわれわれの精神にうつろな、肉のない骨を与えてしゃぶらせ 、好奇心を満足させるためでなく何であろうか。クレイトマコスは、カルネアデスの著書から彼がいかなる意見をいだいていたかを全然知ることができなかった、と言った。 エピクロスが著書の中に平易を避け、ヘラクレイトスが«スコテイノス»とあだ名されたのは何故だろうか。難解さは、学者が手品師のように自分の技倆のむなしいことを見せまいとしている貨幣であり、愚かな人間どもはこれで簡単に支払いを受けたつもりになる。
彼はあいまいな言葉のために、むしろ愚かな者の間に有名である(ヘラクレイトス)。、、、 なぜなら、愚かな者は難解な言葉の下に隠された意味を見つけて感嘆し、これを喜ぶからだ(ルクレティウス)。」
・加藤 和哉さんのコメント
つまり、芸術でも、学術でも、クリエイティブィティとかオリジナリティとかは、意図されたものではなく、結果として、いわば神の賜物ように生まれるのではないかと思うのです。
・Petrosky Tomioさんのコメント
すごく面白い課題だと思えます。神の賜物。ではその神はその芸術家が創出されたとされているものを、その出現の前から知っておられたのか。もしそうだったら、その芸術家は創造の営みに参加したのではなくて、まだ具現化されていないが、既にそこにあったものを発見したにすぎない。例えば、大海に浮かぶ孤島を誰も見たことがなく、だからそこに孤島があることを誰も知らなかったとして、誰かがすでにそこにあるものを発見する。決して、その島はその発見者が創造したものでない。そんなことを芸術家はやっているのか。
昔読んだ本なので、どの本で読んだか忘れましたが、こんなことが書いてありました。古代ギリシャの著名な彫刻家が言うには、自分は石を切り出して彫刻を創っているのではない。すでにその石の中に前もって存在している掘り出しているだけだと述べていたのが印象的でした。ところがその2500年後の現在、自分が創り出しているのだと主張しない芸術家ってほとんどいなくなっているのではないでしょうか。
テキサス大学でかつて創造性に関して様々な学問分野と芸術分野の人たちが参加して学際的なシンポジウムが開かれたことがありました。物理学者として、テキサス大学に所属する二人のノーベル賞受賞者もそのシンポジウムの討論会に招待されておりました。一人は素粒子の弱い相互作用と電磁相互作用を統一する電弱統一理論を完成させたスティーブ・ワインバーグ教授で、もう一人は複雑系の物理学の創始者とも言える私の先生のイリヤ・プリゴジン教授です。ワインバーグ教授は根っからのユダヤ人です。
ワインバーグ教授の主張は、物理学には創造的な営みはない。上記の孤島の例のように、すでにそこにあるものを発見するだけだ、との主張でした。
それに対して、プリゴジン教授の主張は、この世界で非常に単純な物事に関してはワインバーグ教授の言うことが当たっているかも知れない。しかし、人間の行いを含めた非常に複雑な事象に関しては、それを認識するための土台そのものが、たとえばそれを認識したとする人の埋め込まれた文化や歴史的な経験や経緯に強く依存している。現在の文化に根ざした世界観は、仮にたった一つの世界観から進化してきたとしても、その過去に様々な原因で経験した不安定状況を通過する時点で、制御不可能で全く予測不可能な偶然を契機として、ある集団は右に進み、ある集団は左に進みと分岐して、世界観の多様性(すなわち文化の多様性)を手に入れてきた。
だから、我々がある世界の存在に気付くと言う行為は、必ずしも前もって既にそこに存在しているものを発見するという単純な行為だけではない。その固有な世界観が創出して見せたという新しい世界の存在に気付く場合もあるのだ。すなわち、我々が新しく何かの存在に気付くと言う場合には、そのような固有な文化に根ざした見方をすることによって、今までなかったものを創造して見せたのだと言う場合もある。そして、その何を見出すかと言うことに関しては、それを創り出す以前には存在しなかったので、神と言えどもその存在を知らなかったのだ。そして、そのような世界のみが、我々自身が我々の未来の構築に参加できる世界なのだ。そして、自然科学の過去の営みの中には、このような創造的な仕事がいくらでもあったのであり、これからもそれを創出し続けるであろう。これがプリゴジン教授の主張でした。
私はこの話を聞きながら、かつて読んだことがある上記の古代ギリシャ人の彫刻家を思い出し、ワインバーグ教授を代表とする自然科学者の世界観や思考形態って、現在の芸術家よりも2500年ぐらい遅れているのではないかと思えたのでした。
・加藤 和哉さんのコメント
楽しいですね。そんな対話の場所に居合わせるとは。プラトンの想起説をめぐるような議論です。
加藤和哉さんの回答は以上です。ありがとうございました!
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