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#40「古いか新しいか」剣道は進化しているか?

note上でたびたび宣言しているとおり、私は剣道観が古い人間だと自覚しています。そのうえでの雑感です。雑感なのでツッコミどころが多いのは自覚ありですが、勇気を出してここに書いてみます。

■新しいことは全てポジティブなのか

古い剣道界の悪しき部分=ネガティブな部分は断つべきだと言うことがよく言われています。私もそう思います。
しかし、古いものを新しく変えることは全てポジティブだと捉えていくことで、結果的に剣道をつまらないものにしていってしまう可能性があると考えています。

■のろはやの面

剣道の奥深さを象徴するもののひとつに「のろはやの面」というものがあります。打たれる側からすれば、スピードもパワーもないけれどいつの間にか間に入られていて「あー、来る!打たれる!」とわかっているのに何もできずに打たれてしまうーなんで今打たれたのか、その時にはわからない…というものです。

剣道は老若男女問わず、スピードやパワーがなかったとしても「極めていく」ことができるものです。それが最大の魅力です。
ここに交剣知愛が成立する理由があります。

子どもの頃から剣道を始めて10代、20代、30代…50代、70代…と進むにつれ、考え方も変わっていきますし、新たに気がつくことも増えていきます。
年齢が高くなるほどに求めるものが変わっていくと、ある意味では鈍感になるのかもしれません。

「あのじいさん、こっちがボコボコに打ってるのに全然認めねー」
というのがまさにそれです。
私も若い頃はそう思ったことはたくさんあります。
でもそれは私が若かったからなのです。

今は少しずつ、私がその「認めねー」方になりつつあります。
もちろん、いいところは認めるようにしています。
しかし、この「認めねー」は、意地になっているからというよりは、無意識だったりします。

なぜこのような変化が起こるのでしょうか。

■増えるインフルエンサーの存在

それぞれの年代や過程において、剣道における価値観が変容していくのが何故なのかを理解しないまま、またはしようともしないまだまだ若い年代でも、今はインフルエンサーになれてしまいます。

若いインフルエンサーがカリスマになり「昔の剣道」を全否定し始めると、剣道における「基準」が若い人のそれになっていきます。

全てがそうとは言いませんが、たとえば
「のろはやの面にあるようなスピード、パワーなどの目に見えるものではない何かが確かにある。それによってどんな人でも伸びていく可能性があるのが剣道なんだよ」
ということを噛み砕いて普及できたらいいのではないかと思います。
できれば私はそうしたいと常々考えています。そういう人がいれば全力で応援するでしょう。

しかしです。

「スピードとパワーをつけて360度どこからでも竹刀を振って当てることができる。そしてそれが剣道の進化であるから昔の剣道はレベルが低い」
となるとどうでしょうか。

「いやいや。それは待ってくれ」
と言いたくなります。なぜなら…

その剣道、あと30年続けたらどうなると思いますか?

年齢的にも。剣道界全般としても。

ネットのあちこちに縦横無尽に動き回り、竹刀を刃筋も関係なしに振り回す剣道が溢れています。
「振り回せて動きが速いからレベルが高い」と賛辞して、そしてそれを「剣道の進化」であるかのように言い、その進化に呼応するような剣道具や竹刀が売られたりもします。

本当なんでしょうか。縦横無尽こそが進化だと言ってよいのでしょうか。

A地点からB地点に行くためには寄り道せずに真っ直ぐ行くのが最もムダがない(早いとは限らない)のに、わざわざそれ以外のCやDEFG…と枝を増やして、そっちを経由してBにたどり着いて見せて
「これが新しい剣道です、レベルが上がったでしょう。昔の剣道って古くてつまらないよね」って評価する。
ときには老害呼ばわりする表現まで当たり前になりつつあります。

それではわざわざ自分でレベルを下げてるだけのような気がしてしまうのです。
これは若いか年寄りかとか、そういうことでもないと思います。

ただし、色々回り道して、寄り道し、試行錯誤を繰り返しながら「のろはやの面」の魅力に次第に気づく、ということは確かにあります。
私もそういう一面はありました。

若い頃からさまざまな剣道のかたちに触れ、経験した人生の大先輩の先生が若手にボコボコ打たれても動じないことを「閉鎖的で負けを認めないから」とは断言できないはずなのです。

■仁和寺にある法師

何十年も続けて色々発見があるから剣道は面白いのであって、まだまだ道の途中で「剣道界は全部わかってる。大規模改革が必要だ」と言われても…
もちろん、その志はすばらしいことだとは思っていますが「仁和寺にある法師にはならないようにね」
と願うことしか私にはできません。

変わらないからと石頭と呼称しダメだと断じるのか?
剣道ならではの合理性自体を否定してしまうのか?

その差を判断する「基準」がなくなってしまったら、剣道はどんどんつまらなくなり、アスリートだけが楽しめるスポーツになっていくのだと思います。
あくまでも私の目線ということにしておきますが、それはむしろ剣道の可能性を狭めているように見えます。剣道をはじめて40年以上が経ち、勝負の世界からもほぼ離れてしまったオッサンの意見。剣道界ではヒヨッコだけれども若手ではない、という立場からの私見です。

■剣道の魅力は不変なもの

ただし、考え方を押し付けたいとか、私見を振りかざしたいというのもちょっと違います。
前述したように、少なからず若い頃は私も同じように考えたことがあったからです。

それに何より剣道そのものは、小さな変化に白黒をつけるような度量の小さなものではないと思うからです。

多様性を受け入れつつ、結局は剣道の魅力は不変なものであるということを私たちはわかっているはずなのです。
だから剣道はやめられませんね。

「古いか新しいかなんて まぬけな者たちの言い草だった
俺か 俺じゃねえかで ただ命がけだった」

以上、異論はあろうかと思いますが…とりあえず今日はこの辺で。

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