定義から放たれ、心打ち解けた熱情について
「なぜ抱擁しないの?」
「とても好きだけど抱擁しない人たちがいるのよ」
「好きじゃないけど抱擁する人たちもいる」
──シモーヌ・ド・ボーヴォワール『離れがたき二人』(早川書房)
先に言っておきたい。これは、読書感想文でもなければ、オススメの本紹介でもない。ある一冊の本をきっかけに、2月の日曜日の午後、日に照らされた図書館の一角で、外の景色を眺めながらぼーっと考えたことの羅列である。さらに、自分には思考が飛躍する癖がある。だから、これから書き連ねる自分の考えがそっくりそのまま本に書かれているわけではない。書籍に興味を持った方へ誤解を招かないように、明記しておきます。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールを知ったきっかけは、彼女のパートナーであるジャン=ポール・サルトルだった。
サルトル哲学を勉強していた時、サルトル本人よりも、そこで紹介されていたボーヴォワールに強い興味を抱いた。
図書館のフランス文学コーナーで著書を探し、たまたま手に取った一冊が『離れがたき二人』だった。
そもそも、サルトルに興味を持ったきっけは、ある映像作品で彼の言葉が引用されていたから。
“Freedom is what you do with what's been done to you.”
哲学は、セクシュアリティの揺らぎについてじっくり向き合うための信頼できる味方となってくれた。
詳しいことは《Club with Sの日 第34回レポ》に書いてあるよ。
親友同士のシルヴィーとアンドレ。
“離れがたき二人”
彼女たちの関係性について、絶対に“友情”とは書きたくない。でも同時に、“愛情”と書くのは間違っているような気がする。
“友情”と言い切ることは、勇気の欠如であり、“愛情”と言い切ることは、眼差しの複雑性の否定だから。
物語の内容を簡潔に伝えることを求められたら、こう表現しよう。
純白に囚われた女性と、彼女の内面に赤いバラの萌芽を見出し続けたたったひとりの、女性の話。
本文中には瑞々しく繊細な、それでいて芯のある表現が次々に登場し、その度に自分は世界が拡張する喜びを体全身で体感する。
例えばこの一文。
“彼女には本当に幸福が似合うことだろう”
これは、ボーヴォワールによる“I love you.”の訳なのだと思った。
「彼女には幸せになってほしい」と書くよりずっと彼女の幸福を切望しているように聞こえるし、何より、彼女への温かな羨望、愛に満ちた眼差しをありありと感じ取れる。
シルヴィーがアンドレと出会ったばかりの頃
「あなたが死ぬならわたしもすぐに死ぬ」
と決意するエピソード。
この強烈な愛情表現、なんか既視感があるな、と思っていたら、グザヴィエ・ドランの映画『マイ・マザー』だと気付いた。
本の中では少女から親友の少女へ、映画の中では母から息子への愛として描かれている。
ありふれた男女の恋愛関係でない点も魅力だ。
自分はグザヴィエ・ドランの映画に影響を受けてフランス文学に触れ始めた部分もあるので、原点に返ってきた感覚。
好きな分野を研究する過程で、点と点が繋がる体験って嬉しいものだ。
『離れがたき二人』は巻末の「養女によるあとがき」も素晴らしい。
“虚無と忘却を消滅させるためには、ただ一つの解決策しかありませんでした。それは、文学の魔法に頼ることです。”
自分も文学の魔法に頼り、一人のノンバイナリーとして、あるいは一人のパンロマンティックとして、本を読みながら考えたことを綴っていこうと思う。
例えば、日常会話で、あるアーティストの名前を挙げ
「〇〇さんが好きです」
と言ったとする。
そのアーティストが男性だった場合、周りからは“恋愛感情に近いもの”として見なされ、逆に女性だった場合、“憧れ”として認識される。
でも実際は、男性アーティストには「こんな風になりたい!!」という強い憧れを抱き、女性アーティストには「もしかしたらこの人を愛しているのか……?」と思うほど惹かれていることが多いのだ。
だから、会話が微妙に噛み合わなくなる。
あまりに些細で、相手は気付かないほどだけど。
特定の誰かを好きだ、と言った時、それは、憧れ、尊敬、友情、愛情、欲望etc……様々な可能性が同じ確率だけあるはずなのに、なんで好きな相手と本人のジェンダーから特定の感情に偏ってジャッジされてしまうのだろう。
無知が空間に蓋をしたのだろうか。
恐れが選択肢を塗り潰したのだろうか。
可能性の否定なんて、社会の未熟が招いた悲劇だ。
「どうして勝手に恋愛感情と結び付けるのか」
「この感覚は決して愛情としては認めてもらえない」
そうやって、誰かを責めたいわけじゃない。
なぜなら、誰かから決めつけられる前に、自分が自身に対してやってきたことなのだ、と自覚しているから。
子供の頃、つまり、気付かぬうちに社会の因習に染まり、個性を規範に押し込んでしまっていた頃、自分の中で湧き上がる感情の真の姿を見つめようとはしなかった。
分かったつもりになっていた。
探し方すら知らなかった。
同性の人に強い感情を抱いても、遠い存在なら→憧れ、近い存在なら→友情、この二択に振り分けられた。
でも、本当にそうだったのだろうか?
今の自分は当時の自分ではないから、確かめることはできない。
もし、多様なジェンダー・アイデンティティやセクシュアリティについて、若い時から大人に教えてもらっていたら?
学校教育で扱われなくても、LGBTQ+をテーマにした作品に容易に触れられるほど文化が成熟していたら?
“「順応」とは、あらかじめ作られた、いくつもの穴が空いた鋳型の穴の一つに自分を嵌め込まなければならないことを意味する陰鬱な用語ではないでしょうか。”
──シルヴィー・ル・ボン・ド・ボーヴォワール
「まだ10代の子にこんな難題を与えたら、混乱させるだけだ」
知識を求めても、そう判断を下す大人たちはたくさんいただろう。
自分たちの能力は過小評価されていたのだ。
確かに、10代の頃の自分に答えを出せるだけの聡明さはなかった。
それでも、考え続けられるだけの意志力はあった、と自信を持って言える。
ただ、選択肢がほしかったのだ。
アイデンティティについて悩むチャンスを奪わないでほしかったのだ。
二元論の最大の罪とは、若者の考える力を軽視し、考えることによって生まれる可能性を無視したことだ。
『離れがたき二人』を読み始めたのは2月の中旬。
バレンタインデーシーズンにこんな本を読むのはまるでヘテロノーマティヴィティへの反抗だし、カフェで読書しながら“愛の再解釈”について悶々と考え込む姿は世間のロマンチックな雰囲気から逆行している。
そういえば、(ちょっと話が逸れるけど)、つい最近、公開25周年を記念して映画『タイタニック』が復活上映されていたよね。
メインビジュアルに記載されたキャッチコピーは “バレンタインはタイタニックで、泣きませんか?”
実は映画ファンなのに未見で、名作だから鑑賞しておきたかったのだけど、なんとなく気分が乗らなくて、あとは単に激混みでタイミングが合わず、結局見逃すことに。
正直、映画本編より自分が王道ラブストーリーに魅力を感じなかった理由のほうが気になってしまって、しばらく考え続けた。
恋愛観の違い。
大衆に人気のメロドラマと自分が求める愛の表現とのギャップ。
それで、詩専用のノートにひたすら書きなぐった。
その文章はこんな問題提起からはじまる。
“真の愛とは、出会った瞬間に「これこそが愛だ」と確信できるもの?
それとも、出会ってしまったことで価値観が揺らぎ、「愛とは何か」まったく分からなくなってしまうもの?”
自分は後者を支持しながら考察を展開させていくのだけど、納得するまで長々と書いていたら、書き終える頃には好きな人への告白みたいになっていて、つくづくバカげているな、と思ったよ(笑)
……こうやって軽々と自信を貶すことができるのは、「それでも自分は書く」という確信を持っているからだ。
一度手を止め、ここまで書いてきた文章を読み返すと、自分が同世代の人たちと馴染めない理由が詰め込まれているな、と実感する。
本や映画の話をする過程で上のような話を始めたら、間違いなく困惑されるだろう。
だけど、自分は知性をひけらかしたいわけでも真面目な話をしたいわけでもない。文学部の学生でもないし、哲学科出身でもない。
伝わってほしいのは、「これこそが自分にとっての恋愛トークなのだ」ということ。
1954年に執筆された一冊の本に、現代を生きる自分のリアルを体感する表現が存在すること。
誰かに惹かれすぎて、相手に抱く感情のコアな部分まで探究していたら、哲学が現れたこと。
文学や哲学が、専門家だけのものではなく、もっと日常生活に溶け込んだらいいと思うよ、本当に。
こっちだって雑談中にわざわざ堅苦しい話をしたくはないよ(笑)
終了間際のBGMが鳴る。
閉館時間を告げるアナウンスが流れる。
いつの間にか空は暗くなっていて、図書館の外に出たら、さっきまでの日差しの温もりが嘘だったかのように雪が降っている。
これは、今後、自分の激情を雑に扱ったりはしないという宣誓のようなもの。
そして、未来の、熱情を抱くかもしれない相手へのラブレターのようなものだ。