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東拘永夜抄(加藤智大)を読んで。【批評社】自分にはどの立場から何が出来るか?

「解」に続けて、2014年1月25日初版のこの本を読んでみた。半日くらいで一気に読み終えてしまうくらい、読みやすく引き込まれ、共感しやすかった。私は良く「自殺して復讐をしたい」という気持ちになる。それは誰に対してかというと、私をわかってくれなかった人たちへ。きっと私が死んだところで、何かを感じ取るインテリジェンスは持ち合わせていないとは知りつつも、そのような願いを抱いてしまう幼稚な自分を持て余す。

加藤死刑囚が、本人と同じように『親に支配され情報を遮断されているばかりに正しい判断ができない子供たちに「世の中」を見せてあげることで子供自身が正しい道を選べるように手助けをしたかった』という理由で教師になろうと考える場面がある。でも、実の父親は、加藤死刑囚のための奨学金を本人に渡さない、そして母親の心無い言葉など悲痛な状況が重なり、心がポキンと折れてしまう。この気持ちも、私はとても良くわかる。頑張れるタイプの人にはまず理解不能だと思うのですが。頑張れるタイプの方で、「負ける人の気持ちをわかりたい」という気持ちがある方は、まずは「わかりようがない」という事実を認めることから始めると良いかと思う。かくいう私も、加藤死刑囚ほどの自他ともに認めざるを得ないくらいのひどい目に両親から合わされたという経験は無いので、もちろん彼の辛さのすべてをわかるわけではない。あくまでも、重なるのではないかと感じ取れる感情の共鳴が自分の中にあるといったところだ。

どうしてこんなにもいろんな人がいるのだろう?

狭いコンビニのATMで、私がアコムからお金を借りようとしている。その後ろの狭い通路を、棚に並んだ飲み物を求めてオバサンが入り込んでワサワサ動いている。私がことを終えてその隙間から外へ出ると、オバサンは待っていましたというように隙間へ入り込み悠々と飲み物を漁る。そうですか、私の存在が邪魔で、自由に飲み物を選べなかったのですね。大変失礼致しました、と、その「待っていました」の姿を遠目に見て、私は死にたい気持ちになる。私にとってオバサンは邪魔、オバサンにとって私は邪魔。だったら私は死んでしまいたくなる。どうして生きているのかわからなくなる。

話がそれたけど、加藤の秋葉原の事件の時、平気で周辺で当時はガラケーだったカメラ内蔵の携帯電話を掲げて多くの人たちが写真を撮っていた。また、捉えられた加藤への取り調べ等をする警察官のお役所仕事っぷりや、真実とかけ離れてもとにかく仕事を終わらせようとする姿。少なくとも加藤死刑囚は、このどちらの行動も、取らないだろう。そう考えるとどうして一番ノーマルというかまっとうな人が渦中の事件を起こさねばならなかったのかと悲しくなる。感受性が強く責任感が強く、また、お人よし(警官とのやりとりでこれもまた悲しいほどに窺える)ということは、この世で生きるには向いていない。この世で社会の表側をはっている多くの人々は、そんなことを考えることがあるのだろうか。

どうしてこの世にはこれほどに、分かり合えないほどに沢山の様々な人間が存在するのだろう。いつだって損をする人間は決まっている気がする。

自殺も他殺も仕組みは一緒。自分には何が出来るか?

憎悪が内に向けば自殺、外へ向けば他殺。どちらも同じ意味を持っている。このnoteは、そうは見えないかもしれないけど、根底では、これから生まれてくる人間とか、未来を生きる子供などが生きていきやすい社会を創りたいという気持ちで書いている。風俗嬢という立場、もちろん別の社会的立場を築いていくことも可能だが、どうにかして少しでもより良い世の中に貢献したい。だから書きながら考える。自分も含めて自殺したい、他殺したいと感じる人を減らすにはどうしたら良いんだろう。もっと自分も含めたみんなが夢や希望を持って、それぞれを尊重して生きていくにはどうしたら良いんだろう。加藤死刑囚が本気で、『事件が繰り返されないこと』を願って本を書いていることが伝わるからこそ、私も真剣に考える。特に、事件現場に向かって平気でガラケーのカメラを構えるタイプの人間や、上に従ってさっさと仕事を終わらせようと加藤死刑囚の発言を圧力でコントロールしようとした警察のようなタイプの人間ではなくて、お人良しで、感受性が豊かで良く気が付き、だからこそこの不条理な社会でどんどん疲弊していってしまうような人間。そんな人間たちがもっと生きやすい世の中になるために、私には何が出来るだろう。

本の中で加藤死刑囚が風俗を利用するのだが、代金のことを「お花代」と表現しているところに品を感じてますます悲しくなる。東京拘置所に面会に行けるなら行きたいものだ。執行の日は、近いのだろうか?


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