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『春期限定いちごタルト事件』とアニメ『小市民シリーズ』


はじめに

 本稿は、今年2024年の7月から9月に放送されたアニメ『小市民シリーズ』において、うまく飲み込めなかった箇所がいくつかあったので、それらを検討してみたものです。
 作品への批判でもなく擁護でもなく、ただ「よく分からないなぁ」という素朴な疑問を掘り下げていく形で書くつもりですが、読む人によっては批判・否定に思えたり、擁護・同調と受け取られるかもしれません。
 それでも、以下の文章が「私は、この場面をこう解釈した」という前提で語られるのと同様に、本稿も各々が好きなように受け止めて下さって構いませんし、それよりも作品の理解を深める一助になると良いなと願っています。

 なお、本稿は主に『春期限定いちごタルト事件』(=アニメ4話まで)の範囲を扱いますが、話の繋がりを無視できないという理由により、『夏期限定トロピカルパフェ事件』(=アニメ10話まで)の重要なネタバレを含みます。
 また、『秋期限定栗きんとん事件』はともかくとして、『冬期限定ボンボンショコラ事件』についても(具体的なネタバレは避けますが)言及せざるを得ないので、先入観を嫌う方はご注意下さい。

 以上、よろしくお願いします。

一つ目の疑問:プロローグ

10話、07:44

 さて、アニメ1話は高校の合格発表の場面から始まりますが、原作の『春期限定いちごタルト事件』ではその前にプロローグがあって、小鳩くんが見た夢の話が描かれています。その夢の中で、級友を告発して調子に乗っている小鳩くんに投げかけられた言葉は、以下のようなものでした。

彼、もしくは彼女は、にこにこと笑いながらこう言った。
「本当にお見事。鮮やかな推理。綺麗な証明。でも、その、まあ、なんていうか、言いづらいんだけど、はっきり言わせてもらうとさ。
 きみ、ちょっと鬱陶しいんだよね」(略)
 大丈夫。いまのぼくは、夢に出てきたようなのとは一味違う。

『春期限定いちごタルト事件』、P.11

 夢という形で暗示される小鳩くんの黒歴史を冒頭に置くことで、小鳩くんが小市民を志している理由を(少なくともその一端を)読者は推測することが可能となります。それと同時に、この作品内で「小市民」という言葉が持つ意味合いを、読者が推し量れるという効果もあります。
 しかしアニメでは、これが1話の冒頭では描かれなかったので、小鳩くんと小市民を結びつける情報を持たないまま、視聴者は作品を観ていくことになりました。

 なお、小市民という言葉についてはアニメ1話で、小鳩くんが原作にない台詞で「小市民たるもの、決して出しゃばらず、日々を平穏に過ごし、それを妨げることからは、断固として回避の立場を取るべし」(05:36)と説明しています。
 また、それに先立つ話の中で、小鳩くんの家が和菓子屋さんであること(これも原作にはない設定です)、それは「甘いものがそれほど好きではない」という小鳩くんの性癖の裏付けとして用いられていることも確認できます。

1話、05:36

 では、上記プロローグの場面がアニメ冒頭で描かれなかったのはなぜなのか?
 これが一つ目の疑問なのですが、実はこの話は他の疑問にも繋がっているように思えるので、もう少しだけ話を続けます。

 ところで、小説にはしばしば「予言」のような働きをする文言が登場します。分かりやすい例を挙げると、「これが、彼と交わした最後の言葉となった」などですね。この場合は「彼との再会がないこと」=「彼か自分の死」が予言されています。
 この例と比べると確実性では劣る(確実に起きるとは限らない)のですが、上記の場面もまた「予言」のような気配を漂わせています。あるいは「フラグ」と言うほうが伝わりやすいかもしれません。
 つまり、「いまのぼくも、一味違わない」「ぼくではない誰かも、一味違わない」という未来が起こり得ることが仄めかされていて、後から振り返ることで「予言」か否かが判明する類いの描写となっています。
(「ぼくではない誰か」の未来については、引用では省略した「小鳩くんが見ていたもう一つの夢」を思い出していただくと理解しやすいかと思います。)

 私がアニメ序盤で解釈に苦しんだのは、この「予言」と関わりのある場面ばかりでした。なので、まずはこの疑問から提示することにしました。
 検証は後でまとめて進めることにして、その前に他の疑問をひととおり時系列順に挙げておこうと思います。

二つ目の疑問:放課後の教室でトラウマを叫ぶ

3話、19:45

 アニメ3話の終盤、堂島健吾に助けを求めている場面で、小鳩くんは「清く慎ましい、現状に満足する小市民を目指して、なにが悪い!」(19:44)と激昂しています。
 これは小鳩くんが過去を引きずっている証しでもありますし、つまり「いまのぼくも、一味違わない」という場面なのですが、プロローグを知らない視聴者にとっては初見の情報によって小鳩くんが激昂している形になっています。それに加えて、

「けどね健吾、ぼくになにか、わかりやすいトラウマなんてものを期待してるんじゃないのかな? 馬鹿げたことだ。そんなものはないよ。なあんにもね。理由があって小市民を目指しているんじゃない」

『春期限定いちごタルト事件』、P.129

 この小鳩くんの台詞はアニメ2話でも披露されていました。原作では最初にプロローグがあるので、小鳩くんの嘘(あるいは強がり)だとすぐに分かるのですが、アニメでは「トラウマなんてないんだな」と素直に受け取った人も多いのではないかと思われます。
 つまり小鳩くんが激昂した場面で、原作未読の視聴者は、初出の説明的な台詞とともに小鳩くんが感情を爆発させた驚きと、前話の情報は間違っていたという混乱を処理する必要が出て来ます。
 それはいささか情報過多ではないかと私は思いました。

3話、08:50

 また、サカガミを見つけたものの小佐内さんが追い付けなかった場面がありましたが、アニメ3話ではここで話がいったん終わって、小佐内さんが生徒指導室に呼ばれた場面に変わっています。
 けれども原作では、小佐内さんは以下のように述べています。

「あのね。わたしの自転車、ああやって使ってくれているのなら、いいかなあって思ったの」
 ああ、小佐内さん。無理があるよ。よく見ると笑顔もひきつってるよ。(略)
「うん。きょうはいい日だったな。テストも終わったし、ケーキも食べたし、自転車がどうなったかもわかったし。いい日だったな……」

『春期限定いちごタルト事件』、P.171

 このように原作では、小市民を目指すという二人がかなり抑圧された状態に置かれていることが確認できて、それは読者に強い違和感を与えたのではないかと推測されます。
 けれどもアニメでは、普通の人なら音を上げてしまうような我慢を小佐内さんに課していることが伝わらないので、小鳩くんの激昂もまた唐突なものに思えてしまうかもしれません。

 つまり、小鳩くんの激昂は「赤色に染まる空」の場面と並んで、二人の本性が垣間見える大事な場面だと考えられるのに、「なにが悪い」という小鳩くんの憤りを視聴者が率直に受け取れる流れが作れていない(谷の描写が不足しているので山が出て来ても盛り上がりにくい)感があって、それはなぜなのか? というのが二つ目の疑問となります。

三つ目の疑問:お前、小佐内か?

4話、17:58

 アニメ4話では、小鳩くんと一緒に教習所に駆けつけた堂島健吾が小佐内さんの姿に戸惑っている場面がありました。
 これは「ぼくではない誰かも、一味違わない」ということ、つまり事件が解決して(=復讐を果たして)なお、小佐内さんは小市民を装っていた普段とは違う姿に見えたのだと受け取れます。もしかすると、復讐の甘美な味わいを楽しんでいる最中だったのかもしれません。

 小佐内さんの変装については、これに先立つ場面で何度か言及されていましたし、変装の理由についても『夏期限定トロピカルパフェ事件』に入ってから明らかになります。
 しかしながら視聴者にとっては、映像の中の女の子は服こそ違えど紛れもなく小佐内さんであり、堂島健吾が発した疑問がぴんと来なかったのではないかと思われます。

 というのも、この作品では背景が唐突に変化したり、推理の語り手が犯人?の服をまとって行動を再現する映像が何度かあったので、視聴者は今さらこの程度の変装では小佐内さんに違和感を抱かなくなっている可能性があり、そんな状態で堂島健吾の疑問を耳にしても、逆に「こいつは何を言っているのだ?」と戸惑うことになる気がするからです。

 つまり視聴者の目が背景や服装の変化に慣れてしまった状態では、堂島健吾の疑問が見当外れに聞こえてしまうという問題があり、小鳩くんが推理の際にサカガミらに扮する演出は必要だったのか? 少なくとも、ココアの作り方を実演するイメージ映像の中で、小佐内さんに堂島健吾の服を身に着けさせるのは避けるべきではなかったか? と思ったのです。
 あるいは「変装に深い意味はない」というミスリードを狙った可能性もありますが、それは良くない描き方に思えますし、むしろ視聴者に「小佐内さんの変装にも何か意味があるのかも?」と思わせるような描き方をしたほうが、『夏期限定トロピカルパフェ事件』にも繋げやすい気がします。

セーラー服の小佐内さんと、以前一度家を訪ねたときの地味さ全開の小佐内さんしか知らない健吾には、この格好は衝撃的だったようだ。変装姿を見られた小佐内さんは、笑みをすっと消すと、ぼくに耳打ちした。
「どうして、堂島くんまでいるの?」

『春期限定いちごタルト事件』、P.235

 原作ではこのように補足説明があるものの、アニメでは敢えて服装ではなく雰囲気の違いとして描く手もあったかもしれません。
 ギャグ系やバトル系の作品なら、小佐内さんに禍々しいオーラでもまとわせるところですが、幸いこの作品は背景の描き方が独特なので、3話のように小佐内さんの周囲を赤色で満たすとか。あるいは変装姿の小佐内さんの横に地味な姿の小佐内さんのイメージを並べて、服装の違いを明確に見せるとか。おそらく本職のアニメ制作陣ならもっと多くの案を出せるのでしょうし、色々とやりようがあったと思えるだけに疑問が残りました。

 どうして変装姿に違和感を持たせないような演出をしてきたのか? どうしてこの場面では普通の演出で済ませてしまったのか? というのが三つ目の疑問となります。

四つ目の疑問:HOTEL側室

4話、20:44

 アニメ4話の最後で二人が反省会をしていた時に、小佐内さんが水を掛けられた場面がありました。これは「二人の反省にも水を掛けられた」というオチであるのと同時に、今回の事件を経て二人の行動が変化したことを明示している場面でもありました。
 しかしながら、原作とは違ってアニメでは、その変化が見えにくいのです。それを以下で確認してみます。

 小佐内さんはアニメ3話で、学校にスマホを取りに行くと言う小鳩くんを「それがいいと思う」(05:08)と、原作にない台詞で後押ししています。スマホを回収した小鳩くんが「さて、おつかいを済ませなきゃ」(05:30)と呟くのも原作にはなく、何よりも、テスト中に花瓶(原作ではドリンク瓶)が割れたこの事件について、原作の小鳩くんは以下の理由により詳細を語ることを拒否しました。

小佐内さんが、ドリンク瓶を落とした犯人を知りたいと口にすれば小佐内さんの約束違反だし、もしぼくが真相に関する証拠を固めてきたことが知れればぼくの側の約束違反だ。あわよくば推理をさせて、などと目論んでいたのかもしれないけれど、そうは問屋が卸さない。約束がある以上、ぼくが小佐内さんにできることは、愚痴を聞いてやるぐらいのものなのだ。

『春期限定いちごタルト事件』、P.167

 何だか原作の小鳩くんは、小賢しさが増している感じがしますよね。
 ところがアニメでは、店員さんがコーヒーカップを落として割ってしまう場面が挿入され、それを話の糸口にして小鳩くんの推理が語られます。

 この場面は「濡れ衣を着せようとしたってこと?」(07:50)という小佐内さんの発言も含め、原作にはないものでした。つまり謎解きパートへの導入から『夏期限定トロピカルパフェ事件』への目配せまでを、実にスムーズな流れで描いています。初見よりも二周目にこそ、あるいは原作既読者にこそ突き刺さる場面だと言えるでしょう。

3話、07:50

 とはいえ、です。原作で水を掛けられた場面は、小佐内さんを時には宥めすかし、時にはスイーツを与え、時には抑圧するなどして、復讐に走らせないように苦慮していた小鳩くんが、初めて自覚的・積極的に、小佐内さんの復讐を後押しするために推理をした場面なのです。
 つまりこれは「いまのぼくも、一味違わない」と「ぼくではない誰かも、一味違わない」の両方が観測できる(=小市民を志す前の二人が垣間見える)場面であり、そして小佐内さんに推理を語らないほど徹底していた頃の小鳩くんが事前に描かれているからこそ、その落差が読者に強い印象を与えるのだと思うのです。

 アニメの描き方だと、小鳩くんのこの言動も変節だとは伝わらず、むしろ過去に何度も繰り返されたことだと受け取られる気がするのですが、それはアニメ前半部の締め括りとしては弱いのではないか?
 あるいは、どうして『春期限定いちごタルト事件』を、このような平坦な(落差に乏しい)描き方にしたのだろうか? というのが、四つ目の疑問となります。

ささやかな疑問その一:背景について

 大きな疑問は以上の四つですが、その他にも気になることがいくつかあるので、検討の前に二点だけ言及しておこうと思います。

 一つ目はもちろん背景について。この演出をどう受け止めれば良いのかという話になります。
 とはいえ既に挙げた疑問とは違って答えは明確で、「各々が好きに受け止めれば良い」のだと私は思いました。深い解釈を求めたいのなら探求すれば良いし、軽く流したいのなら流せば良いという、そうした類いの演出だという結論です。

 例えば1話で描かれた以下の場面。背景が入れ替わることによって、渡河大橋を横断する小鳩くんと、川の中に入っていく小鳩くんが描かれています。これらはどのような意味があるのでしょうか?
 心象風景を描いたものだとか、先行きを暗示したものだとか、領域展開の使い手なのだとか、人によって色んな解釈があって良いと思うので、私も自分が思ったことを以下で述べてみます。

1話、19:15

 結論から先に述べると、これらは二人の視点の違い、物の見え方の違いを表しているのではないかと私は思いました。

 背景が渡河大橋のこちらは小鳩くん視点で、彼は自分が東から西に向かって道路を横断しているのだと思っています。橋の上にいることは自覚していて、足もとは強固だと思っていますが、この道路が地面には着いておらず、自分が川の上を歩いていることには無頓着です。車が来ても自分なら気づけると思っていて、小佐内さんは気づけないと思っています。だから自分から歩み寄ります。
(岐阜の土地勘がないので、方角が逆だったらごめんなさい。)

1話、19:22

 背景が川の中のこちらは小佐内さん視点で、彼女は小鳩くんを南から北へと歩いて来させようとしています。川の中にいることを自覚していて、足もとが不安定であることや滑りやすい場所や何かが埋まっているかもしれない場所などを把握していますが、それらを最も気づかれにくいルートに小鳩くんを誘導しています。小鳩くんが現れる前に下準備は全て終わらせているので、自分からは動きません。

 これらの解釈に含まれている内容から察せられるかもしれませんが、私はこれらの背景が二人の視点のみならず、それぞれ『冬』と『春夏』に紐付いているとも考えています(川の中に入るまでが『春』で、更に歩み寄らせるのが『夏』でしょうか)。
 これは、直前の描写から想を得ました。

1話、19:05

 道路の両端にある歩道を二人がお互いの存在を気にしながら別々に歩いている光景は、『冬期限定ボンボンショコラ事件』を思い起こさせます(P.168)。既に使っている「渡河大橋」という言葉もそれに影響されたものなのですが、ともあれ、既読者に向けた演出である可能性が高いと考えられます。
 そのため、背景の謎には深入りしたくない人にとって、それは既読者(周回者)向けのサービスだと解釈するのが、妥当な受け止め方ではないかと私は思いました。

 その一方で、深い意味を求める人にとっては、川の中という背景と『春』や『夏』がなぜ結び付くのかが気になるのではないでしょうか。
 これは、二つの作品の始まりと終わりを参照することで片がつきます。

ジャージの裾も濡れていた。

『春期限定いちごタルト事件』、P.39

 とはいえ見得を切るほどの話ではなくて、『春期限定いちごタルト事件』は、水に濡れたジャージによって最初の事件が解決して、

 びちゃっと音を立てて、水がかけられた。

『春期限定いちごタルト事件』、P.244

 水をかけられた事件がすぐに解決することを仄めかして幕が下ります。

 目じりに、涙まで浮かんできた。

『夏期限定トロピカルパフェ事件』、P.14

 そして『夏期限定トロピカルパフェ事件』もまた、小佐内さんに脛を蹴られた小鳩くんの涙から始まって、

 目を閉じて、そして開くと、瞳の端から涙が一粒だけこぼれてきた。

『夏期限定トロピカルパフェ事件』、P.233

 小鳩くんの「別々になろう」という言葉を聞いた小佐内さんが涙を流して幕を閉じます。

 水と涙がこのように効果的に配置されていることを勘案すると、私が川の中という背景と『春』そして『夏』を結びつけてしまったことにも、納得していただけるのではないかと思うのでした。
(余談になりますが、X=旧TwitterのTLで「10秒で泣ける小佐内さん」とか「爆速で泣き止む小佐内さん」といった呟きが流れてきて、この両者の時間感覚の違いも何だか絶妙なので思わず笑ってしまいました。)

ささやかな疑問その二:小佐内さんの背後で赤色に染まる空

3話、16:28

 二つ目はちょっと我ながらお馬鹿な疑問だと思うのですが、これまでに述べたような疑問と向き合っていると、アニメをどう観たら良いのか分からなくなって来たのです。そんな状態の時にふと、以下の疑問を抱きました。

 どうして私はこの赤色に染まる空を、何の疑いもなく夕景だと思い込んでしまえるのだろう?
 つまり、これがどうして朝焼けではないのか、それを説明できない自分に気づいて愕然としてしまったのです。

 世の中の多くの人は、お正月とか旅先などの特別な機会を除けば、夜明けよりも夕暮れのほうが馴染みがあるのだと思います。
 そして夕暮れと言えば秋ですが、それを証明するかのように、『秋期限定栗きんとん事件』の序盤でも、昼と夜を隔てるその時間帯が繰り返し印象的に語られています。

 夕焼けは少し、明るさを落とした。その赤い光に、いつの間にか夜の気配が忍び込んでいる。行く手の先に、一人の女子生徒を見つける。(略)
 彼女の名前は知っている。小佐内ゆき。小市民を目指すと言い張っている、嘘の多い女の子だ。

『秋期限定栗きんとん事件 上』、P.16

 繰り返し、と書いたように、秋に登場する仲丸十希子と瓜野高彦もまた夕焼けとともに描かれているのですが(P.24、P.35)、おそらく大半の読者にとっては「赤と言えば小佐内さん」という印象になっていると思われます。
 そして、夜に輝く月の光によって「狼」の本性がさらけ出されるのだとしたら、それを期待させる演出という意味でも、夕焼けをまとう小佐内さんという絵面は実に巧みなものだと言えるでしょう。
 そもそも監督ご自身が「夕日」だと述べておられます。

 とはいえ、この赤色を朝焼けと解しても、それほど悪くはない解釈だと思うのです。
 というのも、冬と言えば「つとめて」すなわち早朝ですが、中学の頃にあった事件が原因となって抑圧された『冬』の時代を過ごしていた小佐内さんにとって、「小市民」という言葉を再解釈したこの場面は、払暁に差した曙光のようなもの、つまり『春』の到来を意味するものだと考えられるからです。
 それは同時に、小鳩くん主導による小市民解釈に揺らぎが生まれて、二人の視点が(一つ前の疑問で述べたように)ずれていくことを意味します。

 それに加えて、既に『春期限定いちごタルト事件』の中でも小佐内さんに夕陽が差す光景は描かれていて、そこでは小佐内さんの変化は示唆されず、むしろ寂しさや孤独といった雰囲気を感じさせるものでした。

 ウィンドウに顔を向けたままの小佐内さんに、夕陽の赤が差していた。

『春期限定いちごタルト事件』、P.56

 既に疑問として述べたように、『春期限定いちごタルト事件』はアニメでは原作と比べると少し平坦に描かれている印象ですが、それは特に小鳩くんに関する描写において目立つことで、小佐内さんの変化は確かに描かれています。
 その変化を「本性の現れ」と見るのであれば、小佐内さんに夕陽を添えるほうが映えるでしょう。ただし「状況の打破」と見るのであれば、小佐内さんの心情に寄り添っているのは日の出なのかもしれません。

1 《フランスpetit bourgeois》資本家階級と無産階級との中間に位置する人々。小規模の生産手段を所有し自らも労働する、自営の商工業者や自営農民のこと。中産階級・中間階級ともよばれる。プチブル。
2 俗に、市井の人。一般人。普通の人。

デジタル大辞泉、小学館

 小鳩くんが小佐内さんを「小市民」の枠に押し留めるために、上記2の意味で使っていた言葉を、小佐内さんは旧来の意味を持ち出すことによって覆しました。原作ではこの場面にだけルビが振られています。

小市民プチ・ブルにとって一番大切なのは……、私有財産の保全ってことにしたら?」

『春期限定いちごタルト事件』、P.190

 この発想は、テスト中に起きた事件において原作の小鳩くんが推理を説明しなかった際の小賢しい言い回しと比べると、至極真っ当であるように思えます。
 そもそも泣き寝入りをするには受けた被害が大きすぎる状況なので、これを小佐内さんの執念深さの表れとのみ解釈するのは釈然としません。それに『春期限定いちごタルト事件』においては、小佐内さんは善意の通報者という範囲に何とか収まっていて、法の支配に異を唱えて自ら直接的な復讐に走った(=重い刑を与えた)わけではありません。

 このように考えていくほどに、夕陽である理由が分からなくなって来ました。もちろん夕景という解釈を否定するところまでは行きませんが、夜明けでも良いのではないかという疑問を打ち消すこともできませんでした。

 けれども実は、この場面を夕景だと断言できる根拠が映像の中に含まれています。
 それは何かと言うと遠くに見える山並みで、日の出が見える東向きであれば、画面右奥には金華山(山頂にある岐阜城が有名)が見えるはずなのです。

1話、19:04

 先ほど道路の両側を歩いている二人のうち小佐内さんの姿を紹介しましたが、小鳩くんのほうを見ると、確かに山の盛り上がりが違って見えます。
 なので今回の疑問はここでひとまず終わりにすべきなのですが、それでも少しもやもやした感情が残りました。

 その原因が何かと言うと、リアルを取り込んだ絵作りがもたらす負の影響、つまり解釈の限定を引き起こすことがあるのだと実感したことで、アニメ制作の難しさが垣間見えたからだと思います。
 素人の発想で恐縮ですが、この場面は夕方と明け方のどちらの光景とも受け取れるような映像にしたほうが良かったのではないかと思えてならず、それは橋の向こう側の背景を赤で塗り潰すことで容易に、そして岐阜の街並みをこの場面のみ描かないことによって特異的に演出できるのではないかと思えたからでした。

検討

 まずは四つの疑問を再提示してみます。

  • プロローグをアニメ冒頭で描かなかったのはなぜか?

  • 小鳩くんが「小市民を目指して、なにが悪い!」と激昂するまでの流れが良くないのはなぜか?

  • 小佐内さんの変装姿を見た時の堂島健吾の驚きが、視聴者にも伝わるような演出をしなかったのはなぜか?

  • 『春期限定いちごタルト事件』を、平坦で落差に乏しい描き方にしたのはなぜか?

 断定するような書き方はできれば避けたいのですが、その辺りの機微は伝わっていると考えて、このようにまとめました。

 さて、まずは大前提として、アニメ制作陣の原作解釈が浅かったから、あるいは原作を軽視して独りよがりの演出に拘ったから、という説を却下しておきます。
 現実とは違う背景を挿入することに対する賛否はあれども、既に述べたように1話の渡河大橋や川の中の映像からは、原作を深く理解していることが伝わってきます。3話でテスト中の事件について小鳩くんが語る場面でも、原作とは違った流れを上手く話の中に溶け込ませています。

 つまり、上記の疑問はアニメ制作陣が意図的に、原作の魅力を伝えるにはこのほうが良いと考えて行ったものだと思えるのです。
 では、そこにどのような意図があったのか?

 ここで原作の『春期限定いちごタルト事件』について確認しておくと、これは二十年前(2004年)の作品となります。そのため時代設定を今に移してそのままアニメ化すると、携帯電話のスマホへの進化であったり、捜査技術の進歩だったり、あるいはメタ的にはトリックの既視感だったり、初期作品ゆえの未熟な部分が散見されたりで、魅力よりも至らぬ部分のほうが目立つ結果になりかねません。
(ちなみに時代設定をそのままにしてアニメ化する手もありますが、当時の町並みを再現する難しさや、当時は当たり前でも今となっては通じない諸々をどう処理するか、といった問題が出てくるのが厄介ですね。)

 何よりも、原作では小鳩くんと小佐内さんという主役二人を露悪的に描いている場面が多々あり、当時であっても苦手な人は苦手だったと思うのですが、好感度の低い主人公が避けられる昨今の風潮を考えると、何らかの修正は必要だったと考えられます。

 以下は上記の疑問(ミステリ的には状況証拠?)からの推測となりますが、おそらく制作陣は、中学時代を引きずったどん底の状態から始まって通常の関係性に戻る『春』と、小佐内さんの本性がさらけ出される『夏』という、原作にあったような段階的な変化を描くのではなく、どん底状態を見せずに二人の通常の関係性を『春』で描いた上で『夏』に繋げるという構成を選択したのではないでしょうか。
 そして二人の変化(特に底)を小さく(浅く)した代わりに、物語にメリハリを与えるために映像で(=背景の挿入や、自転車を盗まれた時に捨てられたいちごタルトなどで)視聴者に訴えかけることにしたのではないかと私は思いました。

 とはいえ二人の扱いにも濃淡があり、『夏』の最後で小佐内さんの本性を効果的に伝えるためにも、どちらかというと小佐内さんは原作に近い描き方にして、小鳩くんは普通の高校生の範囲から逸脱しないような描き方にしている感じを受けます。
 けれどもそれに対して「小鳩くんの印象もあまり良くないぞ」と仰る人もいるのではないかと思います。私としては「原作のままだと更に印象が悪くなっていたかもしれない」とお答えするしかないのですが、原作のモノローグなどをそのまま描いていたらどんなアニメになっていたのか、それを想像してみるのも面白いですね。

 さて、これで下3つの疑問に一応の説明がついたかと思います。2つ目と3つ目の疑問の答えは4つ目の疑問にあるように「平坦で落差に乏しい描き方を選んだから」で、その理由は既に示した通りです。
 そして1つ目の疑問も理由としては同じなのですが、それは「なぜ10話で描いたのか」という疑問にまでは答えてくれません。

 けれども、これはおそらく難しい話ではなくて、小鳩くんにも3話で激昂したような過去があることは既に描かれているので、その詳細をどの場面で明かせば効果的かを検討した末のこの位置なのでしょう。
 つまり、このアニメは最後の2話をいかに視聴者に印象づけるか、という点を最重要視した作品で、それによって視聴者に二期への期待を抱かせることもできるので、このような構成にしたのも頷けます。

 ところで、以上の検討はアニメ制作側の都合を推測しながら行ってきたのですが、では原作側からの要望はなかったのか、という疑問が湧きます。
 それを説明するためには、『冬期限定ボンボンショコラ事件』について語る必要があります。

『冬期限定ボンボンショコラ事件』について

 ネタバレを避けるため印象的・主観的な話になりますが、『春期限定いちごタルト事件』の描写から想像される二人の中学時代は、小市民への拘りと押し付けの強さゆえに、相当な悲劇だったのだろうと思えるものでした。
 しかしながら『冬期限定ボンボンショコラ事件』で描かれた範囲に限ると、私は、二人にあれほどのトラウマを植え付けるには不足があるように思えました。より正確に表現するなら、『春期限定いちごタルト事件』から連想される苛酷なイメージを和らげて、軟着陸させようとする意志が伝わって来るようでした。
 そうした修正は、個人的には残念なものでしたが、シリーズを完結させるためには必要なのだろうと理解もできるだけに、受け止め方が悩ましいですね。

 こうした原作側の事情もあって、それがアニメ制作にも影響を与えたのではないかというお話なのですが。せっかくなのでもう少し『冬期限定ボンボンショコラ事件』について語っておきます。

 私は『冬期限定ボンボンショコラ事件』の発売を知った時に、二人の出会いの場面などを通して過去の小佐内さんが充分に描かれることを期待していました。が、それも期待外れでした。
 小鳩くん視点の作品なので、語り手の興味や関心が及ばない範囲は描かれなくても不思議はなく、むしろ高校よりも中学時代のほうがその傾向が顕著なのも当たり前だと思えるわけで、だからこそ客観的に小佐内さんの性格を伝えてくれる場面を(例えば会話による深いやり取りを通した、相互理解あるいは対立などを)楽しみにしていたのです。

 そしてもう一つ、空白の一週間(P.348)が描かれることなく、さらっと流されてしまったことには、思わず肩を落としてしまいました。

 とはいえ明確にしておきたいのは、『冬期限定ボンボンショコラ事件』が刊行されて良かったのは間違いのないことで、シリーズをずっと読んできた読者にとっては頬が緩むような場面も多々あって、結末に満足している人も大勢いると思います。
 ただその上で、「物足りない部分もあった」と私は思ったのです。

「おわあ、こんばんは」
「え? いまのなに?」

『冬期限定ボンボンショコラ事件』、P.136

 この引用や直下の引用を始めとして、小鳩くんと小佐内さんの微笑ましいやり取りはたくさん描かれています。それらの背後には、小佐内さんが他人をどのように受容していくのか、そのプロセスも透けて見えます。
 この上下2つの引用は、いずれも小佐内さん的にはポイント低いと判定されそうな場面ですが、小鳩くんがポイントを荒稼ぎしている場面もありますので、未読の人はご自身で確かめてみて下さい。

《準備?》
 ぼくも小佐内さんを真似て、短く返す。
《行こう》

『冬期限定ボンボンショコラ事件』、P.168-169

 このように小佐内さんの性格もちゃんと描かれているではないか、という反論は有効でしょうし、それは「空白の一週間」についても同様です。解説にもヒントがあるように、本文の記述からその空白を推測することは可能と言えば可能です。
 とはいえそれは作品に書かれたことからの推測に過ぎず、そしてプロの作家さんであれば、書かれていないことを適度に加えて、作品から導き出せる妥当な推測とは正反対の展開を描くことも可能です。
 そんなわけで、小佐内さんの謎めいた一週間が白日の下に曝される日を、私は心待ちにしています。

『夏期限定トロピカルパフェ事件』について

 これで『春期限定いちごタルト事件』の範囲は語り終えたので、少しだけ『夏期限定トロピカルパフェ事件』の範囲にも触れておきます。平たく言えば「後者の結末を効果的に描くために前者を修正した」というのが私の検討結果である以上は、その結末にも言及しておくべきでしょう。

 さて、本稿の冒頭で「予言」のような働きをする文言についてお話ししました。同様の文章は『夏期限定トロピカルパフェ事件』にも存在します。

「わたしが全然気づかなかったら、きっと何かヒントを出してくれたよ。完璧じゃ面白くないって。小鳩くんのことだから」

『夏期限定トロピカルパフェ事件』、P.66

 シャルロットの一件については、私はかつて「このお兄ちゃん、高校生にもなって何やってんの?」と本気で呆れたものですが、今春に読書会で読んだ時にもそう思いましたし、アニメ6話を観てもそう思ったので、小学生メンタルを思い出させてくれる貴重なお話だなと今となっては思っています。
 その最後の場面で小鳩くんが告げられた上記の台詞は、小佐内さんが犯行を終えた場面でこっそり作中に蘇っています。

「〈ティンカー・リンカー〉のピーチパイ! 白桃を使ってて、とってもとってもおいしいの!」
 そしてそのまま、小佐内さんの笑顔は凍りつく。

『夏期限定トロピカルパフェ事件』、P.179

 アニメ8話では発言と同時に気づいたという雰囲気ではなく(仮に気づいていたとしても、それを原作ほど明確に態度に出すようなことはなく)、その時に感じた違和感の意味に後で気づいた(あるいは確信した)ような描き方でした。
 その場で気づいていないのなら、小佐内さんも少し普通寄りに修正されているという事例の一つになるのでしょう。

 ともあれ実質的にこの場面で「予言」は果たされ、ヒントを出すまでもなく自らのミスで気づかれてしまった点も小鳩くんと同様で、これは更に「わたしたちがとっても賢い『狐』でも『狼』でもないんだとしたら」(P.227)という小佐内さんの発言へと繋がります。
 つまり小佐内さんは「予言」を憶えていて、二人に共通する問題だと捉えていますが、小鳩くんは(事件の重大性ゆえにか)自分がしでかした過去の一件と誘拐事件とを結びつけず(そのため「予言」にも気づかず)、小佐内さんだけの問題として糾弾しています。

 9話と10話での対話が切ないのは、このように二人の認識の範囲が違うことが原因なのだと思います。
 本稿で取り上げた場面を例に出すと、あの赤色に染まる空の演出がなされた場面で、小佐内さんは「私有財産の保全」という新機軸を打ち出しました。その場では却下されたものの、教習所まで小鳩くんが助けに来てくれたことで、小佐内さんは「二人の間で正式に採用された」という認識だったと思われます。水を掛けられた事件の解決も、その認識の裏付けとなったでしょう。であれば、「身の安全」のための行動や「正当防衛」でも小鳩くんは許容すると、小佐内さんは考えていたのではないでしょうか。
 けれども誘拐事件における小佐内さんの振る舞いを、小鳩くんは以下のように断じました。

「やってもいない罪に人を陥れる。これは駄目だ。これは嘘だよ」

『夏期限定トロピカルパフェ事件』、P.224

 確かに小鳩くんの主張は正論です。しかしアニメ岐阜界隈における治安の悪さを考慮すると、この発言は小佐内さんの耳には絶望的に響くでしょう。
 怪物度合いが原作よりも少し減っている小佐内さんならなおさらですし、そして小鳩くんも原作と比べると普通寄りだからこそ、この主張も仕方のないことだと視聴者は受け止めやすくなります。

 ここにプロローグを挿入することで、空論を述べた小鳩くんのイメージダウンを避ける効果と、小佐内さんの反論を補強する効果が得られます。
 けれども逆に、プロローグによる取りなしや小賢しさの軽減がなかったとしたら、この場面では小鳩くんの失敗、あるいは傲慢さ、あるいは見落としが強調されることになったでしょう。それらは「共感することができない人」(P.227)という欠落に由来するものでした。

「抜けろって言うけど、じゃあ二十四時間自分を守ってくれるのか」

『夏期限定トロピカルパフェ事件』、P.117

 つまり、「予言」とは少し違いますが他の人の声が重なっているという点では類似しているこの発言が、小鳩くんの頭には残っていません。堂島健吾から聞いた、川俣さなえのこの発言は、実は小佐内さんの肉声でもあったのに。

 もちろん、小佐内さんが本心からこう思っていたのか、それとも復讐を行う大義名分として口にしただけなのかは判別できません。
 身の危険を訴える小佐内さんにはどこか嘘くさい気配があり、かといって客観的に見ても小佐内さんに身の危険が迫っていたのは確かで、正解は(そもそも正解があるのか否かも)巧妙に読者の目から隠されていましたし、映像でも決めつけにくい描き方になっています。

 それでも、小佐内さんは自分も「共感することができない人」だと述べていますが、この場面でのそれは「嘘は駄目」といった空論であったり、自分に危害を加えようとする集団が冤罪を被ることに対してのものなので、読者からの共感は得やすいように思います。
 一方の小鳩くんは、現時点では小市民からの逸脱度合いが小佐内さんには劣るものの、効果的に挿入されたプロローグのおかげで、このトラウマを払拭できれば再び小佐内さんと並び立てるのではないかという期待を視聴者に抱かせることができます。

 こんなふうに状況を整えた上で訪れた二人の別れは、10話後半での新キャラ紹介とも相まって、『秋期限定栗きんとん事件』への、つまりアニメ続編への期待をもたらすことになるのでしょうし、それはアニメ制作陣が目指して描いた結末だったのだろうと思うのでした。

 最後に余談として、「そうは言っても小佐内さんの行動は危険すぎるだろう」という実に真っ当だと思える指摘に対して、私見を述べておきます。

 まず一つは結果が全てという考え方があり、小佐内さんが危険を承知で、それでもリスクを取って行動して成果を出したのだから、事が終わった後でもっともらしい指摘をしたところで、当事者の心には響かないような気がします。
 もう一つは制作上の理由があり、たしか『名探偵コナン』の作者さんが「現実では再現できないトリックや、できたとしても容易に見破られてしまうトリックを採用している」と仰っていたらしい(伝聞)のですが、それは本作のこの事件にも当て嵌まるのではないかと思います。つまり現実に濡れ衣を着せられるような説得力のある行動を小佐内さんが披露していたら、それのほうが問題ではないかということです。

 おそらく『夏期限定トロピカルパフェ事件』は、シリーズの中では最も質の高い作品だと思いますので、アニメの印象が良かった人は原作も読んでみて下さい。ただし合わない人は合わないと思いますので、無理は避けるようにして下さい。

小市民との向き合い方

 さて、本稿を終える前にもう一つだけ書いておきたいことがあります。それは、「小鳩くんと小佐内さんの二人にとって小市民とは何か?」という話です。

 私は『春期限定いちごタルト事件』を読んだ時に、「小市民を目指していた二人が、実は小市民に過ぎないのだと判明する」というオチなのかなと思いました。これは既に引用した「わたしたちがとっても賢い『狐』でも『狼』でもないんだとしたら」において、部分的には実現しました。
 その場面を経て『夏期限定トロピカルパフェ事件』を読み終えた時には、「小鳩くんが小市民に過ぎないと判明して、でもそのおかげで、小佐内さんも小市民の枠に留まれた」というオチになるのかなと思いました。

 このように書くと、小鳩くんへの評価が厳しすぎると思われるかもしれませんが、「一芸に長けてはいるけど小市民」という人は大勢いると思うのです。そしてそれは、特に恥ずかしいことではない、とも思うのです。

 小鳩くんは推理能力に長けていますが、作中の描写を見ていると普通にまちがっていることも珍しくありません。あるいは、狭い高校生の世界では抜けた能力だとしても、世の中を見渡せば上には上がいると思われます。そして、いくら能力を磨いたところで、人の気持ちを考えないような未熟な使い方のままでは宝の持ち腐れです。
 けれども長所は長所として確かに存在するものなので、それを活かすことで少しだけ生きるのが楽になったり、小市民の毎日とは趣の異なる非日常を味わえる瞬間が訪れたり、そんなふうに人生に彩りを与えてくれるものでもあります。
 そしてこれらは、「自分は小市民ではない」と考えて普段から不満を溜め込むような日々を過ごしている人よりも、「自分もまた小市民に過ぎない」と自覚できる人のほうが、その恩恵に与りやすいと思うのです。

 そもそも「小市民ではない」ということは、あまり喜ばしい話ではありません。
 それは小佐内さんを見れば分かることで、中学時代の人間関係から始まって、『春』はともかく『夏』や『秋』での活躍ぶりを見ていると、いくら『冬』でその印象を薄めようとしたところで、小佐内さんが特異な存在であることに疑いの余地はないと思われます。
 つまり小佐内さんは中学時代の初期設定も、その後の経験値も、部外者として推理を重ねていただけの小鳩くんとは比べ物にならず、だからこそ小市民を装って無害を主張しなければ、たちどころにして排除されかねない存在となっています。

 要するに小佐内さんには「小市民」だと保証してくれる誰かが必要であり、それともう一つ、見た目の幼さなどから邪推されるような「危害を加えても反撃されるおそれのない小市民以下の弱者」ではないと保証してくれる誰かも必要です。
 これらの両方が果たされない限りは、小佐内さんの周囲から危険が去ることはないのでしょう。

 小佐内さんにとって小鳩くんは、「小市民」として日々を過ごすためには有用な相手なのですが、最適な相手とは限りません。そもそも有用だから小鳩くんと一緒に小市民を目指していたのか、それとも小鳩くんの戯れ言に付き合って小市民を目指してみたら有用だったのか、小佐内さんの中でどちらが先だったのかも分かりません。それが分からないような描き方になっています。
 だから読む人・観る人しだいで、「小佐内さんは恋愛感情を抱いているのに小鳩くんがあんな感じだから」とも受け取れますし、「小佐内さんは来るべき時が来れば容赦なく小鳩くんを切り捨てる」とも受け取れます。おさかわ概念とおさこわ概念が不確定に混じり合っていて面白いですね。

 いずれにせよ、小鳩くんは小市民の枠を自覚する必要があり、小佐内さんは小市民の枠に押し込められる必要があります。そして互いの本性を理解しているがゆえに、一方が必要としていることを他方は実現させることができます。お互いがお互いを小市民の枠で飼い慣らすような形ですね。

「飼い慣らす、ってどういう意味?」
「みんなが忘れていることだけど」とキツネは言った、「それは、絆を作る、ってことさ……」

サン=テグジュペリ (著), 池澤 夏樹 (翻訳)『星の王子さま』(集英社文庫)、P.96

 この「飼い慣らす」という言葉は、『星の王子さま』の原文では”apprivoiser”、英訳版では”tame”などが使われていました。ですが語源を参照するよりも、キツネの説明を読むほうが意味は明瞭になるでしょう。

 小鳩くんと小佐内さんは、『夏期限定トロピカルパフェ事件』の最後で袂を分かつことになりましたが、それまでは(互いの認識とは違って)両方が支え合う形で絆を作っていたのだと思います。
 小鳩くんの推理の出し所を、小佐内さんはある程度は誘導できていましたし、小佐内さんの復讐癖も、小鳩くんの奮闘によってそれなりに抑えられていました。
(そういえば、小佐内さんが小鳩くんの背後から現れることが多いのは、ささやかな復讐の表れなのだと思いますし、それで解消される復讐心というのも何だか可愛らしいですね。)

 そうした下地が再び活かされる時が来るのか。それとも『秋』と『冬』を経ることで二人が決定的にかけ離れてしまうのか。
 それをアニメで確かめるのが今から楽しみですね。

おわりに

 率直に言って、アニメ小市民シリーズは扱いの難しい作品だと思います。
 あの演出に物申したい人たちの気持ちも分かりますし、さりとてアニメ化の難易度が高い原作を何とか視聴者の興味が尽きないような形で制作しようとする意図も伝わってくるので、簡単に否定する気にもなれないですし。
 そもそも作品を解釈しようにも、演出の謎解きをすれば良いのか、それとも原作と付き合わせて読み解けば良いのかも分からないですし、何より他の人がどう受け止めているのかも正直よく分かりません。

 本稿は、そのような私の混乱を整理するために書いたものですが、同じように困惑している人たちが楽しく読めるものにもなっていると良いなと願っています。

 以上、ここまで読んで下さって、ありがとうございました!