見出し画像

【思索】「萌え」とも「推し活」とも無縁だった葉月がVTuberにハマった理由 〜胡蝶の夢を添えて〜

↓葉月の最推し様


物語はキャラよりプロット重視

皆さん、こんにちは。
VTuberさんが好きで、すっかり沼にハマっている葉月です。

主に、にじさんじ所属の方々と、個人勢の方を観ています。
ニワカなので、恥ずかしながら他の事務所はまだあまり詳しくありません。

葉月にとって、自分がVTuberにハマった事実は少々意外でした。

というのも、葉月はアイドルを推した経験もなく、
物語のキャラクターを特別好きになった経験もなかったからです。

むしろ、葉月はエンタメにおいて、「出来事(プロット)」を重視する傾向にあります。
テレビ番組でも物語でも、「何が起こるか」「何をするか」を楽しんでいて、
誰が」「どんな人物が」という部分を優先することはありませんでした。

今回は、そんな葉月がVTuberにハマった理由を書き綴っていきます。
なお、本稿には葉月の極めて個人的な「VTuber観」が含まれますのでご注意を。

夢と現の境界線

結論から言ってしまうと、理由は「虚構と現実の境界線を超越している存在だから」ということになります。

詳しく説明するために、まずは夢と現実の境界線について考えていきます。

夢と現実はどこが違うでしょうか?
「そんなの全然違うだろ」と思われるかもしれませんが、葉月には違いがよく分かりません。

例えば、毎晩繋がっている夢を見て、その内容に整合性が取れているなら、
それはもはや夢ではなく、もう1つの現実と呼べるのではないでしょうか。

逆に、現実の記憶が途切れ途切れの場合、人はそれを現実だと確信できるでしょうか?
葉月にはとてもできません。
自分の認識の中で整合性が取れなければ、葉月にとっては現実も夢になってしまいます。

結局、夢は覚めるから夢なのであり、現実は途切れないから現実である、と定義するしかありません。

このように、夢と現実の境界線はとても曖昧なのではないか、と葉月は思うわけです。

終わるから、虚構?

葉月は物語が好きです。
どんな駄作と呼ばれる物語であっても、物語でさえあれば、ある程度は好きです。

現実には綺麗なものと汚いものが両方ありますが、物語の中には綺麗なものしかないからです。

もちろん、物語で汚いものを描くこともできますが、
物語の中に登場した時点でそれは「汚さ」をテーマとする記号になります。

しかし物語は、夢と同じでいつか必ず終わってしまいます。
終わらない物語もありますが、終わらない物語は大抵の場合、停滞します。

そして「終わりがある」という事実が、物語を嘘にしてしまいます。
」は覚めるまで現実と同じであるように、「物語」も停滞せず永遠に続くならば、その間は現実と同じものです。

残念ながら、現実問題として、停滞せず永遠に続く物語は存在しません。
作者の脳内リソースが有限なのだから仕方がない……と思っていました。

続く限り、現実?

さてさて。遠回りをしましたが、ここで話をVTuberさんに戻します。
VTuberさんはその名の通り、バーチャルな存在です。

彼ら彼女らは様々な背景を持ち、中には非科学的、非現実的なものも珍しくありません。

しかし、VTuberさんは活動を通じて、永遠に物語を続けることができます。
物語と現実を適度に接続したり、逆に切り離すことも容易でしょう。

そうして紡がれた物語を、虚構と呼ぶ権利は誰にもありません。
破綻しない限り、物語は永遠に「もう1つの現実」として機能し続けます。

そこには、現実とは異なる優しさと美しさがあり、虚構とは異なる真実性が含まれます。

以上が、葉月の「VTuber沼にハマった理由」です。
「VTuber」として生きる覚悟を持つ全ての方々に、敬愛と賛辞を送りたいと思います。

補遺

ここまで読んで理解してくださった上で、
「綺麗事すぎる」「VTuberにも卒業とかスキャンダルとか色々あるだろ」などという風に思われる方もいらっしゃるかもしれません。

ですが、本記事ではあえて、そこに深くは触れません。
それらは個々のケースの問題であり、「VTuber」という存在の構造自体に付随する欠陥ではない、と考えているからです。

VTuber界隈は、おそらくまだ黎明期と呼べる状態ではないでしょうか。
これからもっともっと、様々な形のVTuberさんが現れて、
たくさんの新しい「現実」を作り出して、

一般的に現実と呼ばれている「この世界」を美しく塗り潰していってくれることを、葉月は心から願っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?