【映画感想】『天気の子』 止まない雨はあるし、それでも傘くらい差せる
皆さん、こんにちは。葉月めまいです。
本稿はアニメ映画『天気の子』の感想記事です。
もちろん、ネタバレが大いに含まれますので、
本編視聴後に読んで頂けると幸いです。
なお、言うまでもないことですが、本稿の内容は全て個人的な解釈です。
「秩序を維持する機械」としての「社会」
本作では、「社会の秩序は、個人を犠牲にして保たれている」という世界観が一貫して描かれています。
「何か悪があるから」とか、「何かが間違っているから」ではなく、
ただただ「世界は元から狂っている」とされているのが好みですねぇ。
だからこそ、帆高は故郷に息苦しさを感じるし、
陽菜が自身を擦り減らさないと「晴れ(=秩序)」は保たれません。
陽菜と凪センパイは「誰にも迷惑をかけていない」のに、
秩序維持の名の下に「あるべき形」へと矯正されてしまいます。
「人柱1人で雨が止むのなら歓迎」しつつ、
それに「何も知らないで、知らないふり」をしている人々が、
世の中の大半なわけです。
この「圧倒的に冷たく、機械的な社会像」に対し、
帆高が徹底的に、数々の犯罪を犯して抗う姿を描いたのは、
今の時代に、という点も含めて、非常に素晴らしいと思います。
人柱ありきの秩序より、銃声ありきの幸福を
「1人の少女を犠牲にしないと成り立たないような秩序なんて、
壊してしまっていい」という一貫性を持っていないと、
このような映画は創れないと思います。
なんというか、覚悟がガンギマっている(もちろん、褒め言葉です)ように感じられて、そこが大好きなんですよねぇ……。
警察に銃向けて、夏美さんも須賀さんも犯罪を犯すことになって、
小学生まで巻き込んじゃって、やっていることはめちゃくちゃです。
しかし、少女が1人消えるくらいなら、そのくらいして良いし、
東京都の一つや二つ、大雨に沈めたって良い。
最高にロックじゃないですか。
社会はその程度では壊れないし、反逆者さえ受容する
結局、帆高が保護観察で済んで、須賀さんも娘を引き取れているのは、
現実的に考えると、都合が良すぎるでしょう。
大雨による被害も具体的には触れられていませんが、
死傷者が出ていたっておかしくありません。
しかし、テーマ性としては、むしろ、
その「都合の良さ」に重要な価値があります。
「徹底的に社会に抗い、圧倒的に秩序を壊す」ことを肯定していながら、
本作は決して、社会を「壊すべき悪者」にはしていないのです。
大雨が3年続こうと適応していくのが社会だし、
あれだけ大立ち回りをした帆高だって受け入れるのが社会。
もうねぇ……、身を焼かれるような眩しい人間讃歌ですよ。
その上で、自分たちの選択を「仕方がなかった」ことにせず、
善悪と正不正を明確に切り分けて、
業をしっかりと背負った末に「僕たちはきっと、大丈夫だ」ですよ。
覚悟、ガンギマり過ぎでしょ(超絶褒め言葉)。
おわりに
ということで、映画『天気の子』は大人にも若者にも観てほしい、
珠玉の傑作でした。
以下、余談。
よく「セカイ系」って言われていますけど、
「社会」に対する解像度が異様に高く見えるので、
むしろ正反対じゃないか……? と思いましたね。
「セカイ系」に対する葉月の認識が、そもそも間違っているのかしら。
余談、その2。
『天気の子』は以前にも観たんですが、
今回、再履修したきっかけはこちら。
ドシャまどのお二人、着眼点や解釈が面白いですよ。