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あの日から3年~ブラックアウトの2日間~

北海道胆振東部地震から昨日で3年。
3年前の9月6日の明け方3時すぎ、
胸騒ぎで目が覚めました。

小学生の頃に
神戸で阪神淡路大震災を経験してから
地震がくる前に胸騒ぎがするようになりました。
夜中に地震があると
その前に目が覚めて胸騒ぎがし、
しばらくすると揺れだします。
3年前もそうでした。

強い揺れでしたので震度を確認しようと
テレビをつけるため起き上がると
まもなく
廊下の非常灯がつきました。
非常灯は停電が起こると自動的に点灯します。
それが、あのブラックアウトのはじまりでした。
その時はすぐに復旧するだろうと思っていました。

停電でテレビがつかなかったので
ラジオで各地の震度を確認し
その時はまだ
大きな被害の情報も入ってきていなかったので、
少し安心してしまい再び眠りにつきました。

1時間後、いつもと同じように4時半に起床しました。
家の廊下をみるとまだ非常灯は点いたまま。
停電の状態が続いていました。

その頃は私も動けていたので
牛舎仕事をばりばりしていました。
牛舎に行くと牛舎も停電。
停電だとほとんど仕事になりません。
ともかく、
牛の寝床の掃除と餌場の掃除をし、
草をあげました。
いつもなら、
配合飼料と呼ばれる
コーンやふすまなどをまぜあわせた
餌もあげるのですが、
餌タンクの中に入っており
スイッチを押してタンクから出す仕組みなので
停電だと出すことができません。
草だけはたっぷりあげて
我慢してもらうしかありませんでした。

普段はそのあとに、
搾乳をするのですが、
搾乳の機械は電気で動かします。
停電なので乳を搾ることができません。

牛たちは
いつももらえる時間に
美味しい餌がもらえないのと、
乳がはっているのとで、
一斉に鳴きはじめていました。
「ごめんねー」
と言いながら
義父と義母と義理兄と夫とで話し合いました。
50頭の牛を手で一頭一頭搾るか、
搾ったとしても牛乳を冷やす「バルククーラー」も
停電で動いていないので、
せっかく搾った牛乳が駄目になってしまいます。
農協から何か連絡があるまで
搾乳はとりあえずしないことにしました。

仕事を繰り上げて、
いつも搾乳のあとにする
若牛や仔牛たちの寝床掃除と餌やりを
することになりました。

私は仔牛担当で
いつも哺乳をしていました。
40度のミルクを飲ませます。
ありがたいことに
我が家はポンプアップ式ではないので
電気がとまっても水はでました。
そしてお湯も、  
毎日自動的に深夜電力で
湯沸かしできる仕組みになっており、
夜中に沸かされたお湯がタンクにたまっています。そのお湯は1日もちます。
なのでミルクをあげることはできました。

搾乳以外の仕事が終わり
とりあえず家に帰りました。

いつも牛舎仕事のあとに
朝食です。
我が家は残りご飯が残っていたのですが、
母家は毎朝牛舎からあがる時にご飯が炊き上がるように予約しています。
さらに、母家はオール電化です。
お味噌汁も作れません。
我が家はこのような非常時に備えて、
コンロはガスにしてもらっていました。
なので
我が家のご飯を分け
お味噌汁やおかずも持っていきました。
そのあとも電気がくるまでの間、
土鍋で炊いたごはんや
パックご飯をお湯で温めて持っていき、
おかずも持っていきました。
義母もカセットコンロを活用して
食事を作っていました。
が、いつまで停電が続くかわからず、
カセットボンベも売り切れの状態でしたので
この時ばかりは私に甘えていただきました。

備えていた
避難袋
ペットボトルの水や
ガスボンベ
乾電池
非常食
懐中電灯などを出して
リビングに並べました。

ずっとラジオを聴いていました。
時間がたつにつれて、
段々被害の詳しい状況がわかってきました。
亡くなられたかたもおられ
行方不明のかたもおられることもわかりました。

農協から連絡が入り、
農協が各農家順番に発電機をまわして
搾乳することになりました。

農協から発電機がくるのをまっている間
牛はずっと鳴いていました。

そして、私の携帯電話もずっと鳴っていました。
実家や姉
親戚や友人たちが
ニュースをみて
連絡をくれました。
とても有り難く心強かったです。

また実家にも
親戚や母の友人たちからの連絡が、
三日程続いたそうです。
皆様のあたたかいお気持ちに
本当に感謝しました。

私もまた、
以前の入院中に知りあったかたで
震源地に近い地域に住んでおられたFさんに
メール連絡をしました。
常に酸素が必要な方で
その時は停電のため
外出時用の携帯酸素ボンベを使っており、
予備の酸素ボンベを
業者さんが持って来てくれるのを
待っているところでした。

お昼になり
お向かいの工場の方がやかんを持って来られました。
我が家の水道は停電でも出ましたが、
お向かいの工場の事務所はポンプ式で、
停電中は水がでなかったようです。
やかんいっぱいに水をいれ、
ペットボトルのお水やお茶を渡しました。

近所で仲良くしている方にも連絡をとり、
そのかたの家も水が出ないと知り、
ペットボトルの水やお茶を届けに行きました。


普段は朝と夕方の2回搾乳や餌やりや哺乳をします。
夕方になっても発電機がまわってこなかったので、
夕方も朝と同じ牛舎の作業をしました。
乳を搾れず牛の体が心配になりました。

夜になっても
電気はつかず真っ暗な夜を迎えました。
阪神淡路大震災の時、
私が住んでいた家は家の中は
あらゆるものが倒れ
食器もほとんど割れたりと
ぐちゃぐちゃの状態ではありましたが、
マンション自体は
建って間もない新しいマンションでもあったため
幸い亀裂がはしった程度で
そのまま生活を送ることができました。
ライフラインも
ガスと水道は何日も何週間も使えませんでしたが
電気はその日のうちにきました。
この時のブラックアウトとは全く反対の状態でした。
ガス、水道、電気
どれも大事ですが、
電気がとまるとこんなに困るのだと知りました。

夜8時。
2台の車の灯りで家の中が明るくなりました。
外をみると
農協の車と
発電機を乗せたトラックが
到着しました。
早速、発電機をつないでいただき、
配合飼料をあげ搾乳をしました。
せっかく搾った牛乳も、
冷やすことができないので
全て廃棄することになりました。

搾乳を終え、
搾乳機の自動洗浄が終わるのを待っている間に
電話がなりました。
日中にメール連絡をしていたFさんからでした。
Fさんの地域では
電気が開通したという
嬉しいお知らせでした。
無事に酸素が使えるようになって安心しました。
入院中にたくさん励ましの言葉をいただいて、
たくさんの笑顔で元気をいただき、
私もたくさん笑わせてもらいました。
この日もお話をしてたくさんわらいました。
元気をたくさんいただきました。
ですが、
この電話がFさんの声をきく最後となりました。
次の年の春にFさんは天国へ旅立ちました。
それまでメールやお手紙でのやり取りはありましたが、電話をすることはありませんでした。


搾乳機の洗浄が終わる頃には
夜11時前になってました。
私たちが使用した発電機はもう一件まわることになっており、そのかたたちが搾乳を終えたのは夜中の2時をまわっていたそうです。
農協の方、
発電機を運んでくださった方、
皆様の協力のおかげで
仕事ができ感謝しました。


次の日の朝もまだ停電のままでした。
この日はお湯が出ない状態でしたので家でやかんにお湯を沸かして仔牛のミルクをつくりました。
搾乳以外の仕事を済ませ、
この日は出かける用事がありましたので
車で出掛けました。
信号がとまり不安な運転となりました。

家に戻り
お昼12時ごろ、
発電機がまわってきました。
この日もまた牛乳は全て廃棄となりましたが
搾れるだけで牛にとっては良いので
一回でも搾れて安心しました。

 電気がきたのは、
この日9月7日の夜11時でした。

次の日からは通常に戻りましたが、
『地震のこわさと命の尊さ』
『電気の大切さ』
『復旧作業や困難ななか仕事や生活ができるように励んでくださった方々への感謝』
『困った時こそ支えあう大切さ』
『励ましのあたたかさ』
など多くのことを
改めて学んだ2日間でした。

災害は辛いですが、
支えあいの優しさなど
学びや気づかせてもらうことがたくさんあります。

最後まで読んでいただきどうもありがとうございました🍀

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