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第5章 K先生と私

小学生の時、とにかく学校を休みがちだった。長い時で、数週間単位で休んだこともある。やっと登校したと思ったら、熱を出し、早退することもまた然り。学校へ向かったはいいが、途中で気分悪くなり、そのまま自宅へUターン、ということもあれば、自宅で機嫌良く過ごして居ながら夜に熱を出し、あれよあれよという間に39度超えを記録し、慌てて病院の救急外来へ、ということもあったと聞く。母は気の休まる時が無かった、と今でも思い出した様に言う。

私は少しずつ、勉強が遅れがちになっていった。ただ、自分で言うのも何だが、私は根が真面目であると自負している。授業中は内容についていけず上の空の時もあったようだが、掃除の時間や給食当番等各種当番、クラブ活動では手を抜かず、たとえ周りがダラけていたとしても、一人黙々と与えられた役割をこなす、そういう性格であった。

小学校三、四年の担任の先生に、Kという先生が居た。年の頃はもうそろそろ40に手が届くのでは無いかというくらいの、小太りの男の先生だ。この先生は、実に良い先生で、彼を一言で表すなら月並みであるが「教師の鑑」だ。これに尽きる。

学校が休みがちな上、成績も良くない私には、ほとんど友達と呼べる存在が居なかった。休み時間には、ワイワイと騒ぐ同級生を横目に、一人本を読むか、廊下で外を眺めるか、の二択だ。そんな今の言葉で言う“浮いている”私に待ち受けていたものは、他でも無い、“イジメ”だった。

ただ思うのは、“イジメ”にも種類があると思うが、暴力や金銭搾取のような社会問題的なイジメでは無かった事だけは有り難い。主に、①物を隠す、壊す②給食のカレーライスに折った鉛筆の芯を乗せる等“給食関連”③「死ね」と日常的に耳打ちされる④靴の中に洗剤を混入される⑤泥棒扱い…等、もっとあったようにも思えるが、本題の趣旨から外れる為、ここでは省略する。自分で言い返せば良いのだが、当時は全てにおいて自信が持てず、友達と呼べる存在も居なかったため疑心暗鬼に陥っていた私はただ下を向き、ひとり耐えるだけだった。

それを、授業中のみならず生活面でもサポートしてくれたのが他でもないK先生である。精神的に不安定さが増していくにつれ、下校途中で気分が悪くなり保護されることも珍しくなくなり、そんな時にK先生はいつもニコニコ来てくれて、送り届けてくれるのだ。イジメへの対応のほか、皆の前で私の生活態度を褒めたり、私が普段取り組んでいるものを先生が代わりに披露したり、と少しでもクラスに馴染ませようとしてくれたのが、K先生だ。     もしかしたら、教師であれば当然じゃないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、K先生のしてくれた数々の細やかな気遣い、配慮を言葉で表すのはなかなか難しい。

先生と私の自宅はさほど遠くなく、小学校を卒業してからもバッタリと街中で会うこともあった。そのたびにK先生は、やはりニコニコと笑い、「かおりちゃん、久しぶりやね。元気にしてる?」と声をかけてくれた。この三、四年生の時の出来事、想い出は私の中で今でも辛い時の心の支えになっている。社会に出て何かに躓くと、よくこの当時のことを思い出し、K先生や家族をはじめ、私を助けてくれた数々の人のことを思い出す。そうすれば、心の底から、「頑張ろう」と思えるのだ。

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【写真①】姉と私。(左が筆者)小学4年当時。 運動は苦手であったが、一人黙々と取り組める鉄棒系は唯一自慢できる特技であった。

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【写真②】小学2年当時。(幼稚園年長クラス在籍時、すでに「逆上がり」を連続8回達成した記録をもつ← ^^; )

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