きっと初めて、展覧会に行った話
※約5,000字あります。
多分、6年ぶりに note を公開した。
私は言葉や文章を構築するのに時間がかかる。克服するためにしばらくnote やはてブロのエントリを書いてみた時期があった。しかし、結局時間がかかることには変わりはないし、他のことが全く手につかなくなる程執筆にのめり込んでしまう沼に陥ったので、これはいけないと思い早々に止めてしまった。
私もそれから人間として成長したのか「コツコツやる」ということができるようになったようで、実は去年から少しずつ書き続けている記事がいくつもあるのだが、なんとまあ、まだ一つも書き終えることができないでいる。果たしてこれは成長なのか。とはいえ、下書きのままでも書き残すことには意味があるのだ。私にとっては。
先日とある展覧会に行ってきた。そこで触れたものや感じたことを忘れないため、間に合うのであれば皆にぜひ行ってみて欲しいという気持ちの共有(多分、書き終わる頃には終わっているが)、アテンドしてくれた友人と企画に携わった方々に対する謝意と敬意から湧いて出た衝動で、このエントリを急いで書いている(結局4日かかった)。
しかし、読み返すと相変わらずまとまりが悪い様子なので、さながらラプソディである。
文中、ソフトウェア開発に対するネガティブな表現があるけれども、これはある側面を述べただけであって、何かと比べて劣ったものだと言いたい訳では無いし、あらゆる課題を解決するために、世界中のマネージャー、ディレクター、エンジニア達が常に試行錯誤しているのを知っている。だから怒らないで欲しい。私も毎日頑張っているよ。気を悪くしないで。
私は展覧会の類に足を運んだことがない。もしかするとあるのかもしれないが、記憶に無い。
今回は、友人に誘ってもらったことがこの展覧会を知るきっかけとなった。
どのような展覧会に行ってきたかと言うと、こちらである。
「ウェルフェアトリップ 五感のとびらをひらく旅」
「障がいのある人たちの手仕事とたわむれる」というコンセプトで、実際に作品に触れてもよいという体験型の展覧会である。本当に触っても良いと言うので、私も恐る恐る触ってきた。
大変な手間と技術によって成された作品たちで、文字通り職人の業がそこにはあった。
ただひたすら、凄いなあ、綺麗だなあ、などという程度の低い語彙を繰り出していた気もするけれども、何も間違ってはいないと思う。まさにそういう空間だった。
詳しく話す前に、私という人間を説明しておかないと話の道理が通らない気がするので自分語りを挟むと、私にはいくつかの障害がある。
ADHD、ASDといった発達障害。双極性障害という気分障害。それと、記憶障害である。
周りと同じように人間をやれない、という自覚はなんとなくあったものの、何とか生活できていた(つもりだった)し、足並みを揃えるのが苦手ぐらいに捉えていて医者に掛かることはなかったのだが、ここ最近、ようやく生活に著しく支障が出ていることを理解して助けを乞うたところ、診断が下りた。
私の記憶障害は、記憶が断片化して、断片化した記憶同士が結合して新しい記憶を作り出す。ついには、どこに行った、何をした、という経験の記憶そのものがすっぽりと抜けて無くなる。エピソード記憶障害。解離性健忘ともいう。自分一人では気付けない、対人関係における致命的なバグである。
というわけで、衝動と記憶が新しいうちに、どうしてもこの文章は書ききろうと思った。
ようやく障害と向き合って、今は人生のターニングポイントにいると思っているし、そこで得た経験を、まさか忘れることはないだろうと思うのだけど。
初診の日、主治医がくれた言葉。
エンジニアには発達障害の人が多いんです。
でも、それに周りも本人たちも気が付かない。
集中力が必要な作業に適応できていて、
多様性に富んだ業界だからでしょう。
だから、あなたのお仕事は天職だと思います。
人付き合いが苦手だとか、ちょっと怖くて話しかけにくいとか、頑なで譲らないとか、チームワークが苦手だとか、遅刻しがちだとか休みがちだとか、実装は早いけど段取りは苦手だとか、夜のほうが仕事が捗るとか。
エンジニアあるあるだよね。(これらの特徴=発達障害と同定するものではないので、読違えないで欲しい。)
それを聞いた瞬間に視界が開けて、どこか安堵して、過去のことも含めて、見える世界がガラッと変わった。
エンジニアはこだわりが強い。こだわりが強く、リアリストだ。どうしても譲れないこともある。しかしその仕事は妥協に満ちている。妥協と言うよりも諦めかもしれない。そんな現場がきっと多い。
こんな機能を作って何になるのだろうとか、ありものをちょいと修正して何とかせざるを得ないとか、その結果運用でカバーとか、機能要件は満たせても非機能要件は永遠に叶わないとか。
そして、これは自分のやりたい仕事ではないと、割り切れずに辞めていく同僚を多く見てきた。
技術責任者の任に就いたことがある。前述のような開発に対するフラストレーションを改めたいと思い奮起してみたものの、そもそも私にはそのようなマネジメントやディレクションが無理だとわかった。
派閥が存在するような大企業の中堅社員と渡り歩くには人間力が足りなすぎたし、気を向けなければならないことが多すぎて、私の燃料は早々に底をつき、小池百合子の言うアウフヘーベンは不可能だった。
私に成せたのは、せいぜい人が嫌がる仕事を請け負って、人には楽しい仕事を与えることだけだった。それが組織にとっては悪だとわかっていたのに。
気がつけば、一切仕事が手につかなくなっていて、結局私も会社を辞めた。
当時の上司は大変よくしてくれて、これ以上迷惑をかけたくないと辞意を告げた時、君のペースでいい、と引き止めてくれ、退職後も「調子はどうですか?」などと連絡をくれ、フリーランスとしての最初の仕事を紹介してくれた。
この恩に報いるためにも、私はきっとこの業界から離れない。
久しぶりにコーディングをしたあの日は、間違いなくワクワクしていた。
主治医の言う通り、きっと天職なのだろう。
そんな天職ではあるが、妥協に満ちた仕事の実情と対比して、私には、目で見て手に触れることができるモノづくりに対する憧れがある。敬いにも近い。その大小に関わらず、そこにはもれなく、こだわりと精緻が詰まっていると思っているからだ。
この展覧会は、そんな憧れと私の境遇が偶然重なっていた。だから、きっと何かが得られるだろうと、漠然とした期待と共に足を踏み入れた。
最初に案内された部屋で、畳になる前のイグサを見た。恐らく初めて。
栽培しているところも見たことがない、謎の植物。
そのイグサが敷き詰められた部屋で寝転んで、「ああ、畳の匂いだわ」などと当たり前のことを呟きながら、乾燥されたイグサをひとつまみしてじっと見つめ、まるで植物とは思えないその不思議な質感にしばらく魅せられた。誰が最初に思いついたんだろうか。
そのイグサを使ったアクセサリーがある。
と聞いて見てみると、想像とは全く違った物が出てきた。
ビーズのように細かく刻まれたイグサが、とても細い糸で繊細に編み繋がれていて、できあがったその造形はまるでオジギソウの花のようだった。私はそれを見て何だか説明のつかない複雑な感情に包まれて、少し声を震わせながら「凄いな、綺麗だな」としか言えなかった。本当に綺麗だった。
私は和紙の製造工程が好きだ。
仕事に疲れたとき、手漉きの和紙を作る動画を眺めることがある。
原料の処理工程から、本当に気が遠くなるような、一つ一つの粛々とした丁寧な手作業の積み重ねで、優しい風合いなのに強靭な、美術品の修復にも使われるような、世界に誇る和紙ができる。本当に、誰が最初に思いついたんだろうか。凄いよね。
その様子を見て、私も雑な仕事はしまいと、気持ちを新たに仕事に向かうのだ。
先に進むと、そんな和紙を使った作品が多く展示されていた。
ある部屋では、まるでレースの様な、植物や鳥の柄に模られた和紙が天井からゆったりと垂れていて、そこに光が当たって部屋に優しい影を落としていた。
光に透けて儚げに見える和紙をそっと触りながら柄をなぞり、どのように切り取られたものなのだろうか、と思って見ていたのだが、そもそも違った。そのように漉かれていたのだ。よく見れば、そこかしこの柄に濃淡があった。透かし和紙、というのだそうだ。
別の部屋には、龍に見紛う巨大な蛇がいた。和紙と竹でできた、石見神楽に使われる大蛇だ。調べてみると、それは伸ばした時に17メートル程もあるらしい。第一印象として、よく崩れないものだ、と思った。
等間隔に見えるものの、ほんの少しずつずらしながら並べられた竹筒でできた蛇腹が、本物の蛇のようなうねりを生んでいた。
最後に神楽の動画も見たのだが、この大蛇がわっさわっさと動いていて、そんなに動いて壊れないんか。などと心配になったものの、やはりそこには和紙と竹だからこそ生まれる柔軟さと強度があるのだと、日本の古き知恵と繊細な技術を感じた。
隣の部屋には、同じ石見神楽で使われる衣装があった。見るからに圧倒され、豪華絢爛というに相応しいと思ったが、部屋の中央に堂々と佇むそれにはピンと張り詰めた緊張感があり、厳かで神々しかった。
どこを見ても細かな装飾に彩られていて、なんというか、どこにも隙がなかった。
それを40人で作っていると聞いて、40人でシステム作れと言われたら破綻しそうだよなあ、などと思いながら、緻密に練られているであろう工程分業にも感心をした。
このような技術たちを、障がいのある人が引き継いでいるという事実を目の当たりにして、なんだか誇らしさを感じたし、障がいってなんなんや、社会の副産物じゃないのか、とかなんとか、どうしようもないメタ的思考まで巡った。
そういえば、和紙の原料となるコウゾの皮も展示されていて、皮剥ぎされたものもあり、生で見るのは初めてだったので、
「動画で見たことあるやつ!」
などと、いい大人が少しはしゃいでいた。
最後の部屋で、職人たちの仕事の様子を映像で見た。
途中、天然抽出した香りのミストや石鹸の展示もあったのだが(青蜜柑の香りのミストがお気に入り)、それらを作る職人の一人が映像の中で、出来上がった商品をかかげながら笑顔でカメラに駆け寄ってきた。
それを見た友人が、
「かわいいよね」
と言ったのを聞いて、改めてその職人の笑顔を見た時に、その日の展示を通して感じていた複雑な感情の要素に気付いた。
羨ましい。
多くの人と力を合わせて隙のない作品を作る。
見た者の感情を動かす作品を作る。
何かを作って、人も自分も笑顔になる。
その為の、人に真似できない技術がある。
羨ましいでしょ。
ほら、私たちも頑張っているよ。
なんて励まされるような気持ちになりながら、
私にもきっとできる日が来るよね、
なんて希望を持って、多分これからも頑張っていく。
その気持ちを忘れたくないので、私はこの記事をきっと何度も読み返す。
まとまりのない文章だけど、私の精一杯の感謝です。
なんとか言葉にできたことを、嬉しく思います。
アテンドしてくれた友人、企画に携わった多くの方々へ。
本当にありがとうございました。
こういう場所に行くのは、私にはちょっと勇気が必要だったけれど、行ってよかったと思えたし、また行きたいな。写真を撮り忘れていたのが、本当に悔やまれるな。
追伸
イグサが刈り取られる映像を見て、
「まるで稲刈りだな!」
などと、アホみたいな感想を叫んだことは、きっと忘れない気がする。