私は、"お母さんでないわたし"を赦せるだろうか。
この夏、わたしは28歳になった。
28回もやると流石に誕生日を迎えるのもこなれてきて、いちいちリアクションしたり意味づけするのもなんだかな、と思うようになってきた。お祝いされるのは勿論嬉しいし、祝われたい気持ちがないわけではないのだけど。
さほど進学校でもない女子校育ちだからだろうか、周囲の結婚式などのイベントはもう大方終わったようにも思う。
代わりに、周囲では妊娠、出産、子育て、といった話をよく聞くようになった。某写真SNSを開けば、赤ちゃん特有のふにゃふにゃ感と、子育てのしんどさ、そして喜びの双方が、これでもかというまでにスマホに溢れ出す。
わたし自身は子どもが大好きなので、友達に子どもができれば馳せ参じ、数時間遊び倒しては帰宅の途に着いている。
画像提供元:https://www.pakutaso.com/201811573308-8.html
お母さんの世界線、わたしの世界線
話を聞くにつけ、お母さんである彼女たちの世界線とわたしの生きている世界線の違いに気が遠くなる。以下の図は生後1ヶ月の赤ちゃんとママの生活の様子であるようだが、睡眠って書いてあるなかに授乳があるってことは睡眠じゃないし、どうやって生きているんだろう。謎すぎる。わたしは起きて、会社に行って、勉強会や飲みに行き、午前様で帰り、寝る、を繰り返しているだけである。
提供元:https://mamanoko.jp/articles/3585
「大変だったけどなんとかなったよ!これからもっと大変になるよ〜」と笑う友人は、見た目こそ変わらないこそすれ、学生のときのそれとは全く異なるオーラを感じさせる。
以前から見ている友人にせよ、職場のお母さんたちにせよ、「すごい人」であるという感覚がすごい。でも、きっと彼女たちも独身だったり、少女だった時代があるわけで、見ているだけで思わず崇拝したくなる。出産・子育ては神秘的な行為だ。
お母さんの苦悩の中身
そんなお母さんたちと話をすると、いかに働くお母さんたちが大変であるかを感じ、くらくらする。
・24時間じゃ足りないくらい忙しい(公私ともにタスク多すぎ問題)
・めちゃくちゃ頑張っているにも関わらず、周囲に申し訳無さを感じながら働かないといけない(実際の心持ち+周りからの見られ方を気にせざるを得ないときもある)
・子育てをやりつつ、仕事が中途半端になってしまうと精神的にしんどい
・だからといって過度にストイックになると身を持ち崩すわけで、それは許されないという緊張感もある
・子どもがいるがゆえに(特に仕事の文脈において)現状満足を強いられる(転職活動は大変すぎる)
お母さんたちはみんなすごい。本当にすごい。でも、子育てを頑張って職場に申し訳なくなったり、仕事を頑張って家族に罪悪感を感じたり、という話を聞く。バランスが必要な話、と言ったらそこまでなのかもしれないけど、申し訳無さそうに「これ以上は頑張れないんだ」「ごめん、やりたいけどもう時間がだめなんだ」と言われたりすると、ぎゅっと心が痛くなる。ごめんじゃないのに・・・。
わたしの世界線はどこにある?
わたしはというと、「結婚しろ」「子どもは早いほうが良い」「お母さんはあなたの歳でもうお母さんだったよ」「親にならないなんて存在価値がない」「女としての寿命はもう終わりだ」「お前は一生幸せになれない」などの身内からの言葉が、右から左へ、そしてアーカイブフォルダへ、入っていく。
かといって、自分の生き方に自信があるわけでもなく、今後の自分の人生を自分自身に問うても「(仕事以外の人生を)どう生きるか」という答えのない問いの前にただ呆然と立ち尽くしている。
わたしの世界線は"ここ"なのだろうか。違うのだろうか。お母さんになってからも働けるのだろうか。わたしが親だったとして・・・と考えると、途端に思考が沸騰してしまう。
"お母さん"になるということ
翻って考えてみると、わたしがこれまでずっと、子どもを産み、育てるであろうと信じて疑わなかったのは
・子育ては”相対的に”うまくできそうという自信(子どもが得意)
・社会性の具備の証左になるという思い込み(?)
であり、それはつまり、"他人からの見られ方の問題"なんだなと思った。
・子どものふにふに感が好き
・子育ては暇つぶしになりそう
・自分の遺伝子を持つ子を見てみたい好奇心
というのもあるけど、それは
・自分の興味を追求したい
・自分の興味関心領域における知識を増やしたい
・自分の中の言葉を大事にしたい
という欲求を上回らないのではないかとも思う。ただ、一方で
・子どもがいる友人の悩みに答えられない自分の無力感
を感じる機会も増えており、身近な人の力になりたい、そのために経験を増やして、誰かの力になりたい、と思っている私は(本質的でないことは理解しているが)再び、自分の生き方に疑念を持ってしまう。
「子どもを愛したい、そのことが幸せだ」という内なる強いエネルギーを現状では担保できない中で、どんな生き方を描くべきか分からずいる(無論、考えなくて済むうちは考えないでおきたい、というのが正直なところかもしれない)。「予期せぬ外的要因を排除し、自分のなかの好奇心やエモーション、誰かのためにできることを追求していきたい」と願う"いまのわたし"には、正直なところ、「誰かのことを考えぬき、命を燃やす責任」の荷が重すぎるようにも思う。
"幸せ"を創るもの
これまで持っていた「お母さんになること=健全な成長・幸福の証」という考えが、未だかつてないほどに揺らいでいる。
妻になり母となることを一種のステイタス、否、ある種当然のことと思っていたわたしは、"お母さんではない自分"のことを赦せるのだろうか。
きっと、ここから先はわたしのこれからの生き様にかかっているのだろう。自分の目の前にあることを、高望みせず、腐らず、続けていくことしかない。今はまだ、暗中模索を繰り返しているところだけど、いつかもしかして自分の人生が見えてきたりして、色々なことに一定ケリがついたら、次の世代に思いを馳せたりするのかもしれない。
たまには不安がよぎることもあるけど、答えのない人生を楽しめるよう、また、"何者"でない自分自身をちょっとは愛せるよう、心持ちは前向きに、相対する人には愛を注ぎ、やるべきことには真摯に、走り続けていきたい。
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