叶とわ子・外伝/第一話;改心
あらすじ
【心の雛】の原作マガジン
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「一歩間違えたら、取り返しのつかないことになってたわね…」
あの日、奥野心の医院を後にした叶とわ子は、帰路の途中で今日の自分の行動を振り返り、秘書の運転する車の中で、溜め息を吐くように呟いた。
その言葉を拾った秘書は、信号待ちの際にルームミラーで後部座席の叶の表情を確認し、鏡越しに心配そうな視線を向けた。
「心配させてごめんなさい。私は大丈夫だから」
運転席の秘書と同じく鏡越しに相手の表情を確認した叶は、自分より少し若い彼女を落ち着けようとした。しかし、一言で心配は拭えない。
「先生、もう何年もずっと働き詰めですから。少し休まれた方が…」
しかし秘書は、喋っている途中で言葉を止めた。そして、眼鏡の奥の目を思わず見開いた。
「先生、なんか顔が優しくなってませんか? 奥野先生という方、本当に腕利きなんですね!」
秘書は声を上ずらせた。
彼女の記憶から引き出される叶の顔は、基本的にいつも眉間に皺を寄せていた。それだけに留まらず、寸暇を惜しんで歯軋りをしていて、苛々していることを、いつも全身で強調していた。
しかし今は全く違い、憑き物が取れたかのように、落ち着いた表情をしている。
「あら? まるで、いつもは怖いみたいじゃない」
と冗談交じりに叶は返す。そして言いながら気付いた。冗談を言える程度に、心が平穏になっていることに。
今まで叶の心の中には、重責とそれを果たせない無力感、更には怒りや罪悪感など、負の感情が複雑に渦巻いていた。
しかし今は、不思議とそれらが全て消えている。叶は秘書に言われて、そのことに気付いた。
そんな会話をしている間に信号は変わり、秘書は右足をブレーキからアクセルに踏み変えた。
* * *
奥野心は妖精を飼っている。
叶はそう睨んで、患者として彼の医院に潜入した。
予想通り、奥野は妖精を飼っていた。
羽が一枚しかない雌の妖精だった。身に纏っていたものは襤褸にしか見えず、それが羽の欠損との相乗効果でみすぼらしさを際立たせていた。
こんな惨めな存在なら、いっそ薬になった方が幸せだろう。本気でそう思ってしまうくらい、その風貌はみすぼらしかった。
昼間は、あの貧相な雌の妖精を狩りたい一心で、他のことは何も考えられなかった。
誤って奥野を負傷させてしまっても、その気持ちは全く変わらなかった。
しかし何故だろう?
己の中で奥野と激しい問答を繰り広げた結果、無様に泣き崩れた。その後、奥野にカモミールというハーブで淹れたお茶を振る舞われたのだが…。
ハーブティーを飲んでいるうちに、頭の中の透明度が増していくような、濁った水が浄化されるような。気分が晴れ晴れとしていくような、独特な感覚に見舞われた。
そして、自分の行動を振り返る余裕ができた。
一人でも多くの人の、擦り切れそうに傷ついた精神を治したかった。だから数えきれない程の患者の心に触れ続けた。
忙しい。そんな安っぽい言葉では済まないくらい、忙しかった。
患者の心に触れ、荒んだ部分を覗き、時には針と化した患者の心を自分の手に突き刺し…。
己の血を流し、心をも擦り減らし。そうまでしてでも治療を続けた。
それが、人の「心」に触れることができる性質を持つ自分の役割。
そう強く信じていたから。
しかし…。
今日の昼間、自分が放った妖精狩りの刃は羽を欠損した雌の妖精の首ではなく、あろうことか奥野心の首を切り裂いてしまった。
直後に傷が消えていたので、奥野は妖精の血で傷を治したのだろうと察しがついた。あの時は、妖精の血の薬用効果の高さにしか考えが回らなかったが…。
刃の当たり所が悪かったら、奥野はあの場で即死していても可笑しくはなかった。
いや、それ以前の問題ではないか?
そもそも羽を欠損した雌の妖精は、奥野に保護されていた。
目的通りあの妖精を狩れていたら、奥野の精神はどうなってしまっていただろう?
保護していた存在が目の前で殺されるのだ。首を切り落とされるのだ。
想像すら躊躇われる状態になっていた可能性は、充分に考えられた。
一人でも多くの人の精神を救いたいと思っていた自分がだ。
真剣に、この国の医療を憂いていた自分がだ。
誤って人を殺しかけたのだ。
誤らずに当初の目的を果たせていたら、人の精神を破壊していたのだ。
「笑えないジョークもいいところね」
しかしどういう訳か、昼間の自分の暴走を笑い飛ばせる程度に、今の叶の精神は落ち着いていた。
* * *
叶は夜遅くに帰宅した。
彼女の自宅はタワーマンションの55階だ。彼女はここに一人で住んでいた。同居人はいない。一人だ。
窓からは都会の夜景を臨むことができるが、今まで景色を堪能したことなど無い。しようとすら思わなかった。そして、今日もしなかった。
景色の代わりに、叶は手にした「捕獲ちゃん」を凝視していた。
奥野が保護していた雌の妖精ではなく、奥野自身を切ってしまった捕獲ちゃんを。
「自首しようかしら? あれだけの怪我を負わせたんだから」
手にした捕獲ちゃんをぼんやりと眺めながら、叶は呟いた。
この捕獲ちゃんを少し調べれば、奥野の血液や組織片が検出されるだろう。それが動かぬ証拠となり、自分にはそれ相応の刑が処される。
いっそ、そうなった方が楽な気もした。この際、犯罪者になってしまえば、全ての重圧から解放される。
昨日までの自分なら、むしろ喜んでその楽な道へと突き進んでいたかもしれない。
しかし何故か今は落ち着いて、いろんな事態を考えることができた。
「私が自首したら、警察は奥野先生の医院を調べるでしょうから、あの雌の妖精の存在も警察に知られるわね。それは奥野先生の望んでいない展開よね」
少し考えれば、この程度のことは簡単に想像できた。雌の妖精の存在を知った警察が、次にどんな動きをするのかも。
数時間前までの自分なら、「それで薬が得られるなら充分」と本気で思っていただろうが、今はそんな風には思えない。
「安易な方法じゃなく、ちゃんと自力で罪を償えってことね…」
叶は懐からガラスの小瓶を取り出し、それを呆然と眺めた。妖精たちの頭部が何個も詰め込まれた、小瓶を。奥野を震撼させ、雌の妖精を震え上がらせた、あの小瓶だ。
叶はこんな小瓶を何個も持っている。中に詰め込まれた妖精の頭の数は、三桁に至っていても驚かない。数えきれない程の生首を、叶は自宅に溜め込んでいた。
小瓶に詰めた妖精たちの顔は、壮絶な表情で固定されていた。ずっと見ていると、狩られた時の絶叫が聞こえて来るような気がしてしまう。
決して、見ていて気分の良い代物ではなかった。
叶は小瓶を眺めるのを数秒間でやめ、そっとサイドテーブルの上に置いた。
叶の脳裏に、ある男性の言葉が甦る。
浅黒い肌をした、恰幅の良い男性だった。普通にしていれば、陽気に大声で笑っていそうな、人の良さそうな男性だった。
そんな彼が怒号を上げて憤慨していた。
あの言葉を思い出すと、自ずと叶の目には涙が浮かんできた。
「貴方の言ってることは正しい。本当は理解してた」
だけど国の医療の為だ。多くの人々が救いを求めている。そんな状況で、薄っぺらい正義感を振り翳したところで、何の意味がある?
国の医療という大義が最も優先すべきこと。
妖精を狩るのは、薬草をすり潰して薬にするのと同じ。
妖精は虫。私たちのような知性は持ち合わせていない。
叶は今日まで、自分にそう言い聞かせ続けてきた。その結果、どんどん自分の心が荒んでいき、修羅と化しているのも実感していた。だけど、そうしてでも、一人でも多くの人を救わなければならないと思っていた。
「私が間違っていたみたいね」
その結論に辿り着いた叶は、一人の部屋で決意した。
「貴方の思想は私が継ぐ。もう妖精は殺さない」
その道が困難であることは重々承知だ。
だけど、これ以上の犠牲を出してはいけない。これ以上、自分の精神を壊してもいけない。
何より、涙で人を救うなどという方法を、心の医師が選んではいけない。
もう間違えない。
この日、叶は考えを改めた。
決意を固めた叶は、この日「捕獲ちゃん」を手放した。
第二話
https://note.com/clever_zinnia927/n/n15781ceab931
第三話
https://note.com/clever_zinnia927/n/nd8b4b4d564eb
第四話
https://note.com/clever_zinnia927/n/n54d214a38e6a
第五話
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第六話
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第七話
https://note.com/clever_zinnia927/n/n40a06187262d
あとがき
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