見出し画像

『望み』について考えすぎて”今”にいられなくなった人たちへ

「何を望むのか」
「何をしたいのか」
「どう生きたいのか」
「誰と一緒にいたいのか」

などなど、もう自分で決めていかなければいけないフェーズに来ていることは薄々感じてきていた。
誰かに教えてもらってそれに従っていれば安泰という時代は終わったんだなあと常々思う。

自分で決めたことの責任を負うことはあんまり怖くなかった。
まあ不安で苦しくなることもあったけど、その結果をどう楽しみそれからどう学ぼうかなって思えたから。
やったことの結果を”結果”として見ていればいいんだからと思っていた。

でもまあ仕事を辞め自由ともいえる生活をしてみて経験したこととして
『かつての思考や習慣に引っ張られる』
そんな波が度々来るんだよなあ。

どんなに『幸せ』とか『感謝』を感じられるようになってきても、どこかのタイミングで揺り戻しが来る。
自分でもおかしくなってしまったんじゃないかって思うほど自分の感情をいさめることができなくて、感情に支配されて、ドン深闇の中に引きこもっちゃう。

お金という数字はどんどん桁が小さくなっていくし。
でも、働くなら今までとは違う働き方をしたいと思うし。
働き方については自分が勝手に条件を付けてハードルを上げているだけだとこの間気が付いたのだけれども・・・
お金稼ぐために生きているわけじゃないしなあと思うとか。
家庭を支えてくれている家族を見て、なんか申し訳ない気持ちになってきたりとか。
”何かを為さねばならない”という謎の焦りが尻を叩くので全然落ち着いて座っていられない。


『自分の望みを明確にする』


この作業がなんだか自分の思考をややこしくさせているようにも感じた。
いや、とっても大切なことだと思うんだけど考えれば考えるほどわかんなくなってきて変な条件つけ始めたり何かに固執したりしていく。
自分の中の自由さに開かれていくための問いが、自分を縛り付けるものにもなるんだなあと分かった。
何がしたいの!?
自分は何をしたらいいの!?
という焦りから、何も為せない自分と何もしたくない自分に罪悪感を抱いて自己否定の階段をしっかりとした足取りで最下層目指して降りていく。
上昇よりも、下降していくときの足取りのほうがしっかりしているのもまたなんとも悲しい。

SNSでは『自分がなにをしたいのか』という大事な問いを発信してくれる人がいるし、私もそういった投稿をしている。
皆もっと自由になっていいと思うから。
でも、そう言われすぎると焦りませんか?
自分は焦ってきて、焦りから先の不安が生まれてきた。

望みや自分の本音が見えてきてもその方向に進むには人それぞれ必要な時間があるのだろうな。
そっちに進むためにどうしたらいいのかを考え始めると思考が自信とやる気を削いでくることもあるし、なんか色んなことがあって結局動けないまま過ごすことにもなったり。
”今”にいることが大切だと分かっているけど、どうしても望みについて考えると未来と過去に飛んで行っちゃう。
飛んでいきすぎて”今”に立っていられなくなって揺れまくる。


この間なんて自分が何かを食べたいのか食べたくないのかも分かんなくなったからお腹の感覚に意識を向けてみることにした。
頭じゃ分らんからお腹(胃腸)に聞こうと思って。
そしたらすんなり「食べ物は必要ない」という感覚が返ってきた。
あ~いらないかあ~そっか~でも頭はなんか食べたい感じがあるのはなんでだろうな~と思いながら寝転んでそのまま寝てしまっていた。

でもなんか後になってから「あ、これか」ってちょっと思った。
頭で分かんなかったら体の感覚で”今”に戻って”今”の自分に聞けばシンプルなのかもしれない。
”今”に戻る練習として、ちょこちょこやっていこうかな。


まぁ、幸福感だけじゃなくネガティブな感情も出てくる毎日だけど
覚えておきたいことは

『後退は一度もしていない』


ということ。
これは皆そうだよ。
同じ景色ばかりで停滞していると思っても、ちゃんと螺旋階段を上るように景色は大きく変わらなくても自分の位置はちゃんと上がっているから。

「フラフラしているからダメ」→「フラフラしながら歩いている」
「後ろ向きで過ごしている」→「後ろを向きつつ歩いているだけ」
道をはみ出した…と思うこともあるかもしれないけど、道幅がとっても広かったらどんなに蛇行して進んでいたって道をはみ出すことはないし進んでいることに違いない。
自分がどんな道を歩いているのか、そこに目を向けてみてもいいかも。
人によっては片足分の道幅しかないところをバランスとりながら歩いているかもしれないし、端が分からないくらいの道に立ってるのかもしれないし。


望みを明確にすることは大切だけど、明確にする過程で望みを固定してしまってはつまらない。
望みは抽象的でフワフワしてていいのかもしれない。
感覚的なものでもいいと思う。
望みについて意識を向けた時点でもうその望みへの道を歩き始めているんじゃないかな。
歩きながら形になっていく部分がある、と自分は思う。


望みを明確にすることに少し疲れてしまった人達への、休憩所としての記事になりますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?