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きっと楽屋で「知らんがな」って呟いているよ

近年の情報の提供のされ方をファストフードに例えて書いてみたけれど、情報の発信媒体やそれにかかわっている人が悪いわけではない。


今度は自分がコメンテーターだったらどうなるか?
という視点で今度から見てみてほしい。

例えば、自分が趣味として長らく続けてきたことがTVで取り上げられることとなり、その専門家的な立場でコメントを求められることになったとする。
自分としてはずっと続けてきたことだし、好きなことだし、それに関しては沢山の知識を持っている。
コメントを求められることは光栄なことで、そして好きなことをめいっぱい語ることができるからワクワクした心持ちになることだろう。

そんな楽しみな気持ちと少しの緊張を感じながらインタビューに応じる自分。
序盤はそのことについて自分の知りうる限りのことを話せるだろう。
そして次第に話が盛り上がり、インタビュアーの質問にも熱がこもってくる。
「○○の作者はどういうことがあって、この作品を生み出したのですか?」
「どうして△ではなく、■を選んだのでしょう?そこにはどういう意図があるのでしょうか?」
「Aはこういう路線に切り替えてきましたが、今後の情勢はどうなるでしょうか?」

はて…
どうだろうか。
「知らんがな」
と言いたくなってくるかもしれない。

けれども、とても優しいあなたは自分が持っている知識や経験を総動員してインタビュアーからの問いに答えるでしょう。
一生懸命に。
分からない部分があっても、なんとか答えられるように。
そして、インタビュアーや他のコメンテーター達とのやり取りを重ねるうちにあるストーリーが出来上がってくるかもしれない。
そこで時間になり、その特集が終わる。
皆で練り上げたストーリーが情報として流れる。


・・・。
世の中はそれぞれの「好き」「苦手」「得意」「我慢」「自然体」「鍛練」など色んな要素によって支えられ、成り立っているのだろうなあと思っている。
皆が一生懸命に自分を生きていて、それらが合わさってこの世界になっていると思うのだ。
皆それぞれ自分が知っていること、自分なりに理解できたこと、体験した事、できることをしているだけなんだろうと思う。

ある程度時世が読める人はそれを伝えて、それを情報としてまとめることを得意とする人がまとめて、その情報をどのように見せるのか(魅せるのか)が上手な人が編集して、その編集されたものを何を使って発信していくのかを考えることが得意な人がいて・・・とか。
皆自分の得意なことや好きなことを一生懸命やってる数珠繋ぎなだけ。
そう思うと、可愛く思えてこない?
意見が対立したり善だ悪だって分類しがちだけど、それぞれがそれぞれの体験をしているだけなんだよね。

ちょっと話ズレたけど
専門家だから、知識を持っているから、それを長くやっているから、コネクションがあるからその人の意見が正しいとは限らない。
その人ができうる範囲で一生懸命その人の表現をしているだけ。
情報として世にでると
「この後一体どうなるのだろう?」
「こういう場合どうしたらいいのか?」
とか、こちらは知りたくなるけどやはり誰も正解は分からないし、完璧で絶対の安全な状態を作り出すことは難しいのでそういう意味でも自分で自分の判断をしていくことが大切になるのだろう。
それぞれが伝えてくれたものを自分なりにアレンジして、自分にフィットする形で取り入れればいいと思う。


色んな情報に触れて疲れた時ほど、その情報の裏側を可愛く想像してみると面白いかもしれない。
きっと楽屋で「知らんがな」のつぶやきが聞こえ、きっとどこかで楽しく情報を編集して発信している人がいるのかもしれない。
皆がただ、その役割をしているだけ。


情報の伝えられ方について今度は敏感になりすぎても疲れちゃうよねと思ったので、当事者不在の議論白熱コーナーほど
「知らんがな」
の精神で見ていればよろしいかと。


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うおのらこ
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