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自分の体験全てを自分自身とシェアする事で本来の自分に戻ることができるかも

「お墓参りに行こうかなあ~」
と、ふと頭によぎった7月末。
お盆の時期からズレてしまうけど8月は父方・母方のお墓参りと、夫の実家のお墓参りに行くことにした。
こういう直感って結構大事だよなって思っている。
それに今は自由に動けるし、時間や用事を気にせずに過ごせるのはとても有難い。

せっかくだから自分の幼少期の思い出の地を巡ってみる計画を立ててみた。
祖父母や親戚とよく行った場所に今度は一人で行ってみよう。

よく連れて行ってもらった水族館の近くにある小さな遊園地みたいなところ、今もあるのかな?
チケット買ってもらって何度もアトラクション乗り回していたなあ。
ただ寒いだけの施設(北極体験みたいなアトラクション)にじーちゃんを連れて入っていったなあ。

子供ながらにやりたいことが沢山あって、行くたびに何度も飽きずに同じアトラクション体験してさ。
子供だから大人と一緒じゃないと体験できないものもあって、でも同じ体験を共有することが楽しかったんだろうなあって今になって気が付いた。
そのアトラクションについて自分が知っていることを何度も大人に話したり教えたりして共有するのも楽しかったんだなあ。

大人なってからは「それは知っている(体験したことある)から、別にいいよ(自分はやらなくて)」って断ることも出てきちゃった。
なのにあの頃の大人は「そうなんだね」と言ってくれて、何度も付き合ってくれた。
子供の自分が見ているもの、感じているもの、考えていることすべて
”そのまま”
にしてくれていたことに気が付いた。
自分の中にある”そのまま”の世界を”そのまま”存在させてくれていた。


なのに、いつからか ”そのまま” が許されていた世界に
「それは変だよ」
という言葉が付いて回るようになった。
そして「それは変だよ」「よくないよ」っていう言葉が自分の世界の中に入ってくるようになったよね。
これ、人にもよるかもしれないけど幼少期には始まっているよねきっと。
言葉が理解できるようになったり、言葉はわからなくても相手の感情が読めるようになるまで成長したら、周りのことが分かるようになってしまってきたら、入ってくるんだろうなあって思う。

でも、周りは悪気があるわけじゃなくてその人達も知らず知らずのうちにルールみたいなものを取り込み、「そうなのだ」と思わされていて自分がされたことを他の人に言っているだけだったんだと思う。

多分、周りから言われた言葉で自分の世界が崩壊したり自分への信頼や素直さが揺らぐのって一瞬で起こったと思うんだ。
人によってはその一撃の記憶があるだろうし、無い人もいるだろうと思う。

ゆっくりと気が付かないうちにそれは始まったのかもしれないし、一撃くらってすぐに始まるのかもしれないけど自分で自分に対して「それは変」「おかしい」「よくない」って言葉を使い始めてさ、自分を疑って恐れて罰するようになるんだろうな。
自分もそうなっちゃったし。


巷でよく聞く「自分らしく」とか「自分を認める」とか云々の言葉は大切だし、アファメーションで自分を大切にする言葉を唱えて潜在意識から自分を大切にしようとするのも良いと思っている。
だけれど、なんていうんだろう?
今回の思い出から「自分を認める」という言葉の理解度が深まった感じがしたから、言葉だけじゃなくて自分の体験とリンクさせて理解するともっと自分に馴染みが良くなるし、もう1段も2段も深まったところから自分を大切にするということを考えられるようになるだろうなあと思った。

自分流の「自分を認める」「自分を大切にする」というのは自分が見て、感じて、考えて、行動したことすべてを
「そうなんだね」
ってそのまんまにしてあげることかなって思った。
何度自分が繰り返しても
「そうなんだね」
って聞いて、体験を共有してあげることが自分に戻る方法の1つなんじゃないかな。

自分のことをまるごと「そうなんだね」って言って付き合ってくれる他者はなかなかいないと思うから、自分が自分の絶対の味方ってこういうことなんだろうなって思った。


思い出の地巡りで、子供の頃の自分とまた会えるかな?






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