【映画レビュー】ミッドサマー(MIDSOMMAR)
物語の中盤で、学友と自国の夏至祭に参加したスウェーデン出身の
友人のペレが、取り乱した様子の主人公ダニーへ言う。
「君の気持が誰よりわかる。でも僕は喪失感とは無縁だった。
この地に”家族”がいるからだ。みなが僕を力づけてくれた。
共同体が僕を育てた。僕はいつも守られていた。家族の手で」
ミッドサマー(MIDSOMMAR)がどんな作品なのかを問われれば
この台詞を聞くとよくわかる。
四人の男子大学生と、そのうちの一人クリスチャンの恋人の女性ダニーは、四人の内の一人のスウェーデン出身のペレの母国の村の夏至祭へ論文を書く目的で訪れる。ダニーは妹も両親も亡くし精神安定剤を服用している。
到着した村にはお揃いの白い衣装を着た男女が数十名おり、笛を吹いて全員で一行を出迎える。この辺りから徐々に物語は現代性が排除されていき、外部を遮断した様相を見せ始めていく。
またトイレへ行く場面から飛行機に乗っている場面への移り変わり、車を運転している場面での画面の上下が逆さになる場面などは、場面の移り変わりによる現実からの遊離間、乖離感がよく表現されており、この間断のない場面転換は観客の意識を疲弊させ徐々に現実感を失わせていく効果がある。
訪れた村では90年ぶりに行われる9日間の儀式が始まり、ルビー・ラダーなる村の聖書が読まれ、続いて二人の男女が崖から飛び降りて死に、イルヴァというその女性の名は産まれてきた赤子が当人が亡くなった後に受け継がれていく。
その後クリスチャンや学友たちは、ビクスミディグなるセックスの許可証の存在を教えられたり、長老からルビー・ラダーとそこに書かれているルーン文字の説明を受ける。このルビー・ラダーを書き(描き)加えていくのはルビンという賢者であり、この聖書は何百冊もあり永遠に書き綴られていく、と長老は説明する。
登場人物の一人ジョシュがこのルビー・ラダーを写真に撮ることを申し出るが長老に拒否されることで、この聖書、ルーン文字、またルビンなる存在は外部を遮断した閉鎖的な村(共同体)の象徴的な存在としての意味を持つことになる。
物語の終盤にかけてダニーは村のダンスに参加して女王の地位を与えられ、一方でクリスチャンはビクスミディグを与えられたペレの妹マヤと性交する。女王となったダニーは最後の儀式のために恋人であったクリスチャンを村の生贄として差し出すことを容認する。
村の一軒の家の中でクリスチャン他計九人が生贄となって炎に包まれ
女王ダニーが笑顔を見せながらこの物語は終わる。
単なるホラー映画ではある。ダニーの家族(両親と妹)が亡くなっているが
そのことがのちにあまり関わってこない。ただ挿入しただけだ。つまりダニーの背景が中途半端だといえる。
またそれぞれの人物の描き方も足りない。従って人物同士の関係性や
その登場人物の物語との関わり方も不充分だ。
クリスチャンが嗅がされた煙も、飲まされる飲み物も現在でいうドラッグの一種だろう。このドラッグによる幻覚作用で村の住民たちにいいように利用されているということだろう。
しかしながら登場人物よりもこの物語は興味深い。
何故ペレが仲間を誘って故郷の夏至祭へ来るよう仕向けたのかといえば
九十年振りの祭典と儀式のためだ。村の共同体を維持するためには
外部から人を招かなければならなかった。それは外部の人間(ここではクリスチャン)を使って子孫を残すためだ。また儀式のための生贄になる人物も必要だった。ここでは最早個人は単に共同体のために存在するだけの、奉仕するだけの存在になっている。言い換えればこの共同体は個人の存在の意義を全く問うことなく無名的な存在として描いている。個の存在への不問は、共同体の暴走や無責任さにも繋がる。
なぜこんなことが起こるのかといえば、恐らくこれは共同体と家族と個の
未分化によるものだからだといえる。または、共同体と家族と個が合致しているからだ、とも言っていい。
ペレの故郷であるペルカの村では家族の概念が見受けられない。村の共同体自体が家族になっているといえるし、家族そのものが共同体になっているともいえる。従って閉鎖性に富んだ空間だということだ。閉鎖的な空間であるいうことは、常に変化は外部からの圧力や自然災害、または内からの事故(アクシデント)によるものになる。
言い換えれば、自ら考え出して変化を加えていくことや、先回りして手を打つことや経験から導き出したりすることは望めない共同体だいうことだ。
生贄となったクリスチャンたちがいる燃えている家を見つめるダニーは、
この先女王として君臨し続けるのだろう。この場面は存続と維持だけを目的とした形骸化した共同体の実相とそれに吞み込まれてしまった哀れな個人の末路が描かれている。ミッドサマーは共同体と個人、また家族の在り方のひとつを少々ショッキングな形で顕わにした作品である。