地球の終活
人は一人では生きられないと多くの人が当たり前のように言う。
でも俺はそうではないと思う。人は一人でも生きられると思う。
「一人では生きられない」という言葉の中に意図的な悪巧みが隠されているように思う
君達は一人では何も出来ないのだから皆と協力して上の言うことを聞いて動きなさいと言われているようにも思ってしまう。
俺は人は一人でも生きられると思う、分かる範囲で自分の判断で生きて一歩ずつ進んでいけばいいのだ。
そしてその後、人と出会い、助け合う必要が出てきたら人と組む、必要が出てくれば、一人でも二人とでも皆とでも協力して動けばいいのではと思う。縄文時代でも現代でも基本的には同じ行動様式でやっていけばいいのだと思う。
自分の心の内のものと外部の様々の要素が響き合って人は動き、生きていく。そのために人は、人と周りの自然を丁寧に観察するだろう。
孤独、孤立は悪いことのように言い、それを何とかしようとする。
又、孤立してやるかたなくして、又寂しさを感じすぎて嘆いたり、犯罪に走ったりする場合もある。
俺は思うのだが、孤独と呼ぼうが孤立と呼ぼうが、それを「救うべき寂しい状態」と誰が決めたのか、そういう「孤独」はこの現実社会で、あるべきと思われる姿になれなくて、多くの人との違いを感じ、協調する方法を見失いさまよっているだけなのだ。
世間一般的に言われる孤独は人間関係の表現でしかない。人間関係は動けば人や物は反応して関係は深くなったり薄くなったりして、又良くなったり悪くなったりして変わる。そんな世間一般に言われている孤独、孤立は変化する過程の物言いでしかない。人はそう言う意味で孤独になったり、又孤立してもいいのだと思う。ただの過程なんだから、それを寂しさで「追い込む」ことはないと思う。心配することもないし、恐れる事もないんだと伝えてあげればいい。
又、寂しいっていうのは人間社会の関係性の愛の表現なのだ、ほんとは。
求愛が秘められている。
君がいなくて寂しい、相手を求める表現でもある。と、同時に今言われている孤独、孤立という言葉を、俺は、「人は一人で立つことが出来る自立した人間」を表現する時に使いたいのだ。そしてその上で「君がいなくて寂しい」って言えばいい。
可能な限り、時が過ぎゆく事を受け入れ、生々流転を理解し、自然の摂理を理解し受け止める事が出来れば、自分の立ち位置が決まる。
そしてそこから人を見て、周りを見て静かに自分のなすべきことが心に浮かんでくれば占めたもの。
ほんとの孤独は、例えば地球に、宇宙に、時の流れに対してそのすべてを受け入れた時、自然の流れをすべて受け止めた時、人はそれぞれが独りで立つことが出来たときなのだ。
人は一人で立ち、そこから自然の摂理を動く規範として自然と共に生きていける。
「寂しさ」は人を愛する心地に代わり、孤独は自然に抱かれて立つことができる人の崇高な心地に代わるはず。そして人はやがて死に自然に、宇宙に帰っていくのだ。