別れはいつも準備している、けど別れを告げることはない   マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司)

「今朝は気分を変えて原稿を書こう」と朝早く起きて三鷹駅北口の喫茶店「ドトール」に行った。ドトールと言えば社長が都知事選で石丸さんを応援してたというけど、まあいいか、アパートからお店までいつも通り自転車で、お店に自転車を置き、三鷹駅行きのバスにシルバーパスを示し、乗った。朝の8時というのに「ドトール」の席は8割方埋まっていた。今日はちょっと落ち着いて文章書くぞと思い、一階席のゴタゴタを逃れ、地下に行くことにした。地下は割と空いていて、よっしゃと鞄を置いて再び一階の注文カウンターに行き、モーニングサービスを頼み、受け取り、再び地下に降りた。少し涼しめだなーと思いつつも、快調に新聞を読み、そろそろパソコンを開こうかなと思った矢先、体がずいぶん冷えて来て、トイレに行きたくなった。少し我慢したものの心配で立ち上がり、階段を上り、一階のトイレに行ったら使用中のマークが出たドアノブの前で人が待っていた、寒いしと再度地下に戻り、荷物をまとめて外に出た、体がよほど冷え切っているようて、固まった足腰をほぐしながら、店外に出たとたん、太陽の熱と滾る空気に思わずよろめいてしまった。当てもなく店をでたものの、自分とこのお店にもどるかな、どうしようかなと、あっ、三鷹駅横裏に公衆トイレがあるのを思いだした。初めて入るそのトイレ、結構きれいで掃除も行き届き、気持ち良く用を済ました。「ドトール」ではなく、「テラスハウス」にすれば良かったかなと向かいのビルの2階を見上げる。「テラスハウス」は広さも余裕たっぷりでトイレも広い、候補に上ったものの、モーニングは「ドトール」の方が100円安いということで、結局のとこ、決定したのだ。後悔はしないがトイレをさがす時間が余計に時間で、無駄な時間の経過をどう評価したものか、こんなことを考え、悩みオロオロしている自分に気が付き、なぜか少々悲しくなり、少し涙ぐむ。一昨年、相模原に住んでいたとき、半年ほどパートに出ていた。電車に乗って40分かけて会社に行った。俺がえらいのは弁当を欠かさなかったことだ。年のせいか、外食はあまり好きではない、誰かと一緒ということでもなければ、一人ではほとんど外食はしない。コーヒーはたまに一人で飲みに行くけど。通っていた会社の近くにはスーパー「イオン」があり、その中にフードコートもあり、コンビニも近くにあった。けれど、自分で作った玄米と卵とニラとひとかけらの豚肉、例え毎日同じでもこれに勝る物はなかった。毎日似たようなおかずになったけど、冷蔵庫を持ってなかったので、夕方スーパーに寄り、材料を調達し氷と一緒に発泡スチロールの箱に入れ、朝それを取り出して、さっと作る。弁当作りが間に合わず、一度だけフードコートに行き、しかしやはり懲りて、その後は一日も欠かさず弁当を作り続けた。と、頭の中にちょっと前の日々が次々に浮かんでは消える、段々時は遡り、2,3年前のトイレ事情まで頭に浮かんで来たりした。どうでもいいといえばどうでもいいことなのに。なんだかなーと気分は鬱にかわり、足も重くなり、駅前で佇む。駅を背に顔を上げると、ロータリーが見え、その真ん中に馬にまたがった女性の銅像が。ミニバスくらいの大きさはありそう。三鷹駅は割と良く利用しているが今まで気が付かなかった。スマホで調べて見る。村西望作の像でした、1969年に武蔵野市世界連邦宣言10周年を記念して建立されたとある。平和を願っての像である。トイレ事情と弁当一人談義で一杯の俺の頭の軽さが恥ずかしい、俺だって平和を願いたい、願っても良いのであれば。今日の新聞にガザを攻撃するイスラエルはハマスの指導者が隠れていると言う理由で、学校や病院を遠慮なく攻撃する、欧米やEUはそれをイスラエルの自衛の戦争と名付け支援する。ガザの建物は6割以上が損壊し、人口の9割が難民状態である。又、世界の他の地域でも、戦争状態が何処もかしこも。そして、世界の戦争を他人事のようにドトールに入るかやめるか、トイレはどうしようって考えている俺の今。そして世界の戦争に対して何も具体的な方針を出さずに、統一教会まみれで、裏金問題の政府は何をやっているのか。そしてここに北村西望の像に頭をたれている俺がいる。こんな世の中、生きていく価値があるのか、いいやこの世の中にとって俺は生きている意味や価値があるのかと思う。何もできない、しないこの俺は。力が抜け、歩道の敷石に足をとられながら、座ることもできない。世界のうねりも日々変化して、もう少し先、たまたま生きていたら、その時も生きている俺はやはりドトールとトイレのことを考えながら、日々を過ごすのか、いいやドトールとトイレのことを考えながら生きる人生なんてもう終わってもいい、いつ終わっても同じ事。小説「別れを告げない」(ハン・ガン)(訳齋藤真理子)の訳者の解説文を最後にこの文をいったん締めよう。決意をもう一度確かめるために。別れを告げないとは、それは「決して哀悼を終わらせないという決意」であり「愛も哀悼も最後まで抱きしめていく決意という意味。愛するとは自分の生だけでなく愛する人の生を同時に生きる事だと思います特に愛する人の為に祈るとき自分はここにいるが同時にそこにもいるという状態になるでしょう、切なる心でそれを希求するとき、その状態は自ずと超自然性を帯びてきます

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