「朝日のような夕日をつれて」感想(東京公演)
最初に自慢をしますが、私は前回の「朝日のような夕日をつれて」も観劇している。前々回の上演も観ている気がするのだけれど、ちょっと昔すぎてあまり自信がない。何が言いたいかと言うと、純粋にただの自慢です。すごいでしょう。
というわけでこの界隈の芝居好きならばもはや古典の「朝日のような夕日をつれて」(以下「朝日」)。実はコロナ禍でしばらく芝居を観に行くことを我慢していたのだが、生粋の鴻上さんファンである私、「朝日」をやるならば観に行かなくちゃ申し訳ないでしょうということで、誰に対する義理立てかは分からないけれど張り切ってチケットを購入した。ちなみに平日マチネ狙いで(そもそもどうしてその設定があったのかも少し謎)チケットを申し込んだところ、D列センターという、めちゃめちゃ良席が当たった。
久し振りの紀伊国屋ホールに乗り込むと、客層は人生のベテラン勢が多数を占めており、きっとみんな「『朝日』をやるならば久しぶりに劇場に足を運んでみようかしら」組であると思われる。私が初めて第三舞台を観に行ったのは高校生だったのだが、その時周りがみんな大人ばかりだったことを思い出した。きっとあの頃に劇場に来ていた人たちが観に来ていたのだと思う。
さて、肝心の舞台の感想ですが、とにかく勢いがあった。確かにそもそも勢いがある芝居だけれど、こんなに勢いで持っていく芝居だったっけ? という感じ。もちろん良い意味で。若いキャスティングだからこその勢いがあったと思う。幕が開いた途端、高速ジェットに載せられて、そのままエンディングまでビューンと連れて行かれる感じ。鴻上さんファンの私はもちろん物語の大筋が頭に入っているので、「あっ、そうそう、こういう話だったよね」「うん、こういう展開だったわ」「そう、この演出」みたいなところはたくさんあったけれど、決して「ベテラン勢が上演していた『朝日』を若手が真似して上演している」という感じではなかった。それは戯曲を今の時代に合わせて書き直していることも大きいけれど、演じている役者さんの力によるものが大きいと思う。言い方がふさわしいか分からないけれど、ちゃんと彼らの「朝日」だった。良い意味で、今までの「朝日」と違う芝居だと感じた。もちろん昔は昔の良さがある。私はどちらも好きだ。
教科書でもあり古典でもある「朝日」だけれど、私自身内容をちゃんと理解できているのかと問われれば、はっきり言って三割くらいしか理解できていない。事実、前日に職場で「芝居を観に行く」という話をしたところ、地方住みなため芝居を観る人がめずらしいこともあり、どんな芝居を観に行くのか、と聞かれたのだが、上手な説明が全くできず「ええと、おもちゃ屋の話で、あっでも全体的に意味が分からないというか、話の筋がはっきりしているわけじゃないんだけど、でも観終わったらなんとなく分かったような気持ちになる、そんな芝居なんです」という、よくわからない返答しかできなかったのだが、少なくともそれが私の素直な感想だし、言ってしまえば鴻上さんの作品は全体的にそんな感じで(そこに時々「ふいにポンと奈落の底に落とされる」「急に心を遠くにぶん投げられたまま終わる」が加わる)、私はそれが好きで鴻上さんのファンなのだ。そしてその感覚は今回も健在だった。
久し振りの(配信以外での)芝居鑑賞だったせいか、幕が上がった瞬間、いや、劇場に一歩足を踏み入れた瞬間から、胸がギュッとなった。正直、地方住みの私は芝居のネット配信は大歓迎だし、なんならコロナ禍であらゆる芝居が配信されて、かなり得るものも多かったのだが、やっぱり芝居は生が一番だとしみじみ感じた。
というわけで、新しい「朝日」、とても楽しかったです。少し大げさな言い方をすると、「新しい歴史に立ち会えた」くらいの感覚です。次はいつ観られるかな。今から楽しみです。
それにしても、芝居を観るたびに「あー、やっぱり芝居で食べていきたかったな」と思うのは私だけでしょうか。舞台の上で生き生きと動き回る役者さんを観るたびに、「あの時の人生の分かれ道で芝居に続く道を選べばよかった」みたいな気持ちになるんです。
えっ? いつ頃そんな分かれ道があったのかって? それがね、何度思い返しても一度もないんです。そのくせそう思うんです。私だけですかねえ。