「君と好きな人が百年続きますように」の境地に辿り着いた話
「君と好きな人が百年続きますように」
言わずと知れた、一青窈の超名曲「ハナミズキ」の一節である。この曲が時を重ねても変わらず歌い継がれているのは、この一節が多くの人々の心を掴むからだろう。しかし、初めてこの曲を聴いたとき、私は思った。
「いやいや、そんなわけないでしょう」
だって「君と好きな人」の「好きな人」って、強力な恋のライバルじゃん。しかも、すでに君はその人を好きなわけで、それって私はもうチャンスがないってことじゃん。なんで振られた相手とそいつが選んだ女の幸せを私が願わなきゃいけないわけ。
私が他の人と比べて特別底意地が悪いわけではない(と、思いたい)。どんなに好きな相手でも、自分以外の女を選んだ時点で失望するのが普通だし、今まで重ねてきた想いはどこへやら、「二人まとめて地獄へ堕ちやがれ」などと呟きながら真夜中の神社で藁で作った手作り人形に五寸釘を打つくらいの方がよっぽとまともな神経だろう。本気で好きじゃなかったから、そんな悠長なことが言えるんじゃないの。
若かりし頃の私はそう思っていた。
しかし、四十歳を迎える前くらいから、私の心に大きな変化があった。いつの間にか、本気で「君と好きな人が百年続きますように」と思えるようになっていたのだ。何か大きなきっかけがあったわけではない。おそらくはゆっくりと時間をかけて私の心がそう変わってきたのだと思う。
私には、かれこれ十年近く「素敵だな」と想い続けている人がいる。しかし、その人にとっての特別な存在になりたいと思ったことは一度もない。出会った時にはすでにその人は結婚していたからだ。
もしもその人が独身だったなら、と考えたことはあまりない。だからこの「素敵だな」という感情は、例えば「ファン」とか「推し」とか、そういうものなのかもしれない。
その人とは数年間同じ職場で働いていたけれど、ある日私が別の部署で働くことになった。とは言えども同じ会社にいるので、時々顔を合わせることもある。そのたびに「ああ、やっぱり素敵だな」と思いながら、胸がじんわりと温かくなるのを感じていた。そしていつの間にか私は、「この人が奥さんとずっと幸せに暮らせるのならば、私も幸せだな」と思うようになっていたのだ。
愛とはいったい何なのか。その問いに答えを出すのは難しい。しかし四十代行き遅れ、ある意味愛について語るには最もふさわしくない私は「その人の幸せを願い、それを喜ぶことが愛なのではないか」と思うようになった。例え相手が歩む人生に、自分の出る幕が一切なかったとしても。
もちろん「君」が私を選んでくれれば、私は百パーセント幸せだ。しかし、そのことで「君」が仮に六十パーセントしか幸せになれなかったとして、「君の好きな人」を選んだ場合、「君」が百パーセント幸せになれるのであれば、私は喜んで「君」を「君の好きな人」に譲り、彼らの幸せを百年祈る。それが愛だと今の私は思っている。「君」が百パーセント幸せであることが、私の一番の幸せなのだから。
実は最近になって、その人と顔を合わせる機会が増えた。どうやら奥さんとは順調なようだ。私はその人を見かけるたびに、いつも元気をもらっている。それで充分だ。
その人は服には無頓着で、先日は色あせたポロシャツを着て仕事をしていた。たまたまその人とすれ違った私は、「ああ、やっぱり素敵だなあ」と思ってから、あんなに白茶けたポロシャツ姿を見て「素敵だな」と思うなんて、これはやっぱり恋なのかな、などと考えたりした。
君と好きな人が百年続きますように。