
「持つ者」と「持たざる者」、そして「ニセ持たざる者」
世の中には三種類の人間がいる。「持つ者」と「持たざる者」そして、「ニセ持たざる者」だ。
持つ者。それは天に全てを与えられて生を受けた者を指す。さしたる努力をしなくても、なんでもできてしまう。その上、顔が良かったり、お金持ちだったりなど、何かしらのオプションまでついていることもしばしばだ。一方、「持たざる者」はその真逆である。基本的に何をやってもうまくいかないし、要領も悪い。私はここに属しているので、仕方がないからその穴を努力で埋めて、なんとか日々をこなしている。
私は、世の中の人はこの二種類に分けられると思って生きてきた。しかしこの歳になって、もう一種類あることに気が付いた。それは「自分は持たざるものだと思い込んでいる、ちょっとだけ持つ者」つまり「ニセ持たざる者」である。そして彼らは我々「持たざる者」の宿敵でもある。
そもそも「持つ者」は我々の敵にはならない。「持つ者」にとって我々は頑張らなくちゃいけない、気の毒な人でしかないからだ。一方、「ニセ持たざる者」は、我々「持たざる者」を自分と同じだと解釈する。しかし、「ニセ持たざる者」は「持つ者」ほどではないにせよ、努力せずともそこそこの成果を得られるだけの能力を持っているため、我々「持たざる者」の要領の悪さを理解できない。その結果、我々のことを「普通にやればできるはずなのにできないということは、手を抜いているに違いない」と考えるのである。
「持つ者」は雲の上の人なので、そもそも交わることが少ないが、「ニセ持たざる者」は我々「持たざる者」と同じような場所にいることが多い。しかし、立っている場所は同じでも、我々は血のにじむような努力の上で這い上がった結果である一方、「ニセ持たざる者」にとってはふらりと辿り着いただけの通過点でしかない。そして彼らは、その場所に立っている人間はみんなふらりとやってきただけだと理解しているのだ。
我々「持たざる者」にとって、その勘違いは大迷惑である。しかし、どれだけ彼らに説明しても、彼らがそれを理解することは難しい。なぜならば彼らは自らが「持つ者」ではないことを分かっているからだ。我々の説明に対する彼らの返事はこうだ「そんなこと言ったって、お互いに『持つ者』じゃないのだから、あなたも私も同じようなものでしょう」。
全然ちっげーよ。お前らが動く歩道で移動してきた道のりを、こっちは必死こいて走ってきて、今ここに立っているんだよ。努力せずして満足にできることなんか何一つない、それが「持たざる者」なんだよ。
と、言い返してやりたいところではあるが、正直なところそんなことをしても何の意味もない。なぜならば、彼らが我々「持たざる者」のことを理解するのは不可能だからだ。しかしこれは決して彼らへの批判ではない。我々だって彼らのことを理解することはできないのだから。
私と同じ「持たざる者」のみなさん。もしも「ニセ持たざる者」に自分のことを理解されずに苦しい思いをすることがあったら、分かってもらおうと努力する前に、「本当にこの人に自分のことを分かってもらいたいのか」を考えてみてください。そうすればきっと気が付くでしょう。別にこの人に理解してもらったとて、何の得にもならないということに。
なんでも努力してしまうことは我々「持たざる者」の一番の長所でもありますが、同時に短所でもあります。本当に自分のことを理解してほしい人にだけ、理解してもらいましょう。大丈夫、なんとなくやり過ごせば、相手は動く歩道に乗って、そのうちどこかへ行ってしまいますから。