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森羅万象おしゃれカフェ計画(番外編・一人でお酒飲めるかな)
その日私は異様なテンションで駅までの道を早足に歩いていた。
そのつい4時間ほど前、私は大きな(難しい、という意味ではない。そもそも私に難しい仕事が振られることはない)仕事を終え、神のような上司から「今日はもう帰ったら」というありがたい言葉をいただき、これ幸いとばかりに1時間早く仕事を切り上げ、帰路についていたのだ。普段は車通勤なのだがこの日はノーマイカーデー。リュックを背負って駅に向かう私の足が軽いのには理由があった。
今年に入ってからというもの、私はこの仕事に向けて相当なプレッシャーを感じてきた。いや、そんなかっこいいものではない。とにかく嫌で嫌で仕方がなかったのだ。どれだけ嫌だったかと言うと、同じ係の若い男性職員に「一万円あげるから代わってくれ」と懇願したほどだ(ちなみに当日は二万円まで値上げした)。しかし買収は上手くいかず、結局私がその仕事をやることになった。正直なところ全然上手にできなかったし、結果のようなものはずっと先に出るので、今日で終わりというものでもないのだが、そんなことはどうでもいい。
どんな仕事も、終わってしまえばこっちのもの。
というわけで、私はこの日が車出勤ではないのを良いことに、帰宅時間のラッシュアワー前に駅に滑り込み、お酒を一杯だけ飲んでサクッとひとり打ち上げをすることにしたのだ。
というわけで今回はおしゃれカフェ番外編、「おしゃれカフェで一人で飲めるかな」です。
今回私がチャレンジするのは、駅直結の商業施設にあるガラス張りのおしゃれカフェだ。この店はいわゆる個人経営のカフェではなく、適度に広さもあり、立地的に一人客もそれなりにいるため、カフェとしての難易度はかなり低い。イメージで言うとプロントみたいなお店だ。
だがしかし、私の中のハードルは「一人でお酒を飲む」というところにある。私もそれなりに大人なので、一人でお酒を飲んだ経験がないわけではない。しかし大抵それは旅行や出張など、地元以外の店に限られている。「旅の恥は掻き捨て」ではないが、知らない街で知らない店に入るのは比較的ハードルが低くなるので、地元で飲むとなると少し話が違ってくる。
でも大丈夫。だって今日の私、テンションおかしいもん。今までの人生経験から得た教訓だが、何かしらでテンションがおかしくなった時に、普段できないことをやっておくと、それが経験となり、平常時も同じことができるようになる。今日はまさしくその日なのだ。
というわけで、週末に近くもないド平日の午後5時。普段ならばまだ勤務時間外、しかも同僚はまだ仕事をしている、という背徳感にぞくぞくしながら、私は店に向かった。店は通路側がガラス張りになっており、中の様子がよく分かる。時間帯が時間帯なので、客の姿はまばらだ。しかしゼロではない。こんな時間にこんな店で飲んでいるなんて、一体何の仕事をしている人なのだろう。自分のことは棚に上げつつそんなことを思いながら、私は商業施設の入り口をくぐった。
店の席はかなり余裕があったが、ガラス張りの壁の向こうにウェイティングリストのようなものが見えた。近づいてみると「店内利用の方はお名前と人数を書いて椅子に座ってお待ちください」的なことが書かれている。無論待っている客はいない。しかしそう書かれている以上、このルールに従うのが良いのだろう。いくら店が空いているからと言って、いきなり「たのもー、一人で飲みに来ました」と声を張り上げるのが正解だとはとても思えない。
名前。こういう時って、本名を書くのかしら。もちろん今まで何度もこのようなリストを利用した経験はある。けれども今日はいつもと違う。一人だし、まだ外は充分明るいのに一杯ひっかけようとしているのだ。そんな犯罪ぎりぎりのこと(個人の見解です)をするのに、実名をさらすなんて、超絶間抜けなのではないだろうか。
とは言え、仮名を使うとなったら、一体何を使えばよいのか分からない。もし私が既婚者ならばここで旧姓を使えるのに、もし私がバツイチならばそれでも旧姓が使えるのに、行き遅れだから何もない。ちくしょう、こんなところで行き遅れによる差しさわりに直面するとは……。だからと言って四十半ばにもなってここで推しの苗字を書く勇気もない。というわけでおとなしく実名を書くことにした。そして次の欄は「人数」。1名。私一人だ。どうだ参ったか。行き遅れ舐めるな!
というわけで、無事ウェイティングリストを書き終えた私は、リュックを抱えて丸椅子に腰を下ろした。ウェイティングの列は商業施設の入り口に沿っているため、多くの人が足早に行きかっている。大げさなリュックを抱えて一人で飲み屋の順番を待つ四十路女の姿は彼らの目にどう映っているのだろうという思いが一瞬頭をよぎるが、すぐにそんな思いをかき消す正論が私の頭に降臨する。
「大丈夫、私のことなんか誰も見ていない。だから行き遅れになったわけだし。」
ちくしょう、なんて世の中だ。しかし、人に注目されない人生というものは、若い頃は退屈で残酷なものだと感じたけれど、年を取ってしまえば気楽で便利なものである。
そんなことよりも、私には心配なことが一つあった。先に述べた通り、この店のウェイティングスペースはガラス張りの壁の向こう側にある。しかも店は薄暗い。果たしてお店の人は一人ぽつんとウェイティングしている私の背中が見えているのだろうか。いや、仮に見えていたとしても、「ちょっと疲れちゃった客が店の椅子で休んでいる」ようにしか見えないのではないか。
しかしすでにウェイティングリストを記入してしまったこともあり、私はじっと待つことにした。さすがに十五分くらい待って誰にも声をかけられなかったら、静かにウェイティングリストの名前を二重線で消し、向かい側の日高屋で飲もう。そんなことを考えていた矢先、その救世主は突然現れた。
「これ、書くんだよねきっと。」
そのカップルはこの店に入るつもりで商業施設に入ってきたらしい。ガラス越しに店の様子を見ながら、彼女の方がウェイティングリストに名前を書き込み、私の隣に二人仲良く腰を降ろした。これでウェイティングの人数が一気に三人になったのだ。お店の人へのアピール力も三倍。普段であれば、一人きりで店に入る際にカップルがバッティングしたら「なんだよちくしょう幸せそうだな、こっちは行き遅れなのによ。」などと脳内で毒つく私だが、今日に限っては彼らの幸せが永遠に続くよう祈るばかりである。
そんな救世主の登場からほどなくして、お店の女性がウェイティングの場所にやってきた。彼女は私の名前を呼び、早速席へと案内してくれる。むしろカップルの方を先に案内してあげてほしいところだったが、複雑な上に理解しがたい説明をする意味を見出せなかったため、素直に先に案内してもらうことにした。
店員の若い女性は通路際のテーブル席を手で示し、「こちらの席とカウンター、どちらがよろしいですか」と私に問うた。どうして一人客の私にめちゃんこ目立つ位置のテーブル席をお勧めしてくれたのかは全く謎だが、もちろんカウンターを選んだ。幸いカウンターの一番奥が空いており、居心地最高のシートを手に入れた私は、小さな荷物入れにリュックを押し込み、さらにその上にブルゾンを丸めておくと、スマホ片手にかっこよくカウンターについた。
そう、今日私は一つ失敗をしていた。今までのカフェ訪問で「カフェに行くときは本が必須」ということを学んでいたはずなのに、出勤時にそこまで頭が回らずに本を忘れてきてしまったのだ。
まあでもスマホさえあればどうにかなるだろう。私は早速メニューを広げた。するとそこに弾ける笑顔の女性店員が現れた。
「お客様、当店のご利用は初めてですか?」
この一言に一瞬怯んだのは、一人での来店だったからだろう。わざわざそう尋ねるということは、このお店は何やら難しいルールでもあるのだろうか。しかしそれは全くの杞憂であった。私が「いかにも」という意味の返事をもっと現代風に伝えると、女性店員は笑顔のまま、おすすめの料理について紹介し、「お決まりの頃またお伺いします」と言って、元気よく去っていったのだ。
私は早速紹介された料理を吟味し始めた。根が素直なので、基本的におすすめされたものは一旦受け入れるタイプなのだ。彼女によると、斜め切りのバケットに何かしらを載せたもの(かっこいい料理名があったはずなのだが、今となっては全く思い出せない)が主力商品らしく、その「載せたものの何かしら」も、色々な種類があるようだ。
これはちょうどよい。私はほっと胸をなでおろした。今日は一杯だけ飲むつもりだし、帰宅したら夕食も摂るつもりなので、数人で分け合うようなおつまみは多すぎると思っていたのだ。かといってお酒一杯だけというのもせっかくの機会を満喫できない気がする。しかしこれならば、今日の仕事のせいで食べそびれた昼食分だと思えばちょうどよい量だし、一杯分のつまみとしても十分だろう。
早速私は女性店員を呼んだ。
「お待たせいたしました。」
彼女がメモを取ろうと身構えた瞬間、私はあることに気が付いた。女性店員を呼んだは良いが、よく考えたら「バケットに何かしら載せたものと酒」を頼むことは決めていたけれど、具体的にどれを頼むかは何も考えていなかった。私はお酒が絡むと若干前のめりになる習性がある。
「あのお、このおすすめのやつって、この中でもおすすめってあるんですか? 」
どれだけ自主性がないのか。よりにもよって私は「おすすめの中のおすすめ」を注文する手段に出た。しかしそんな優柔不断な客に対し、女性店員は相変わらず眩しい笑顔を浮かべつつ、こう答えた。
「お店のおすすめはこのまぐろが載ったものですが、私個人のおすすめは、牛カルビです。」
私個人のおすすめ。えっなにそれなんかめっちゃ嬉しいんだけど。そんなこと言ってくれたらそれにしちゃうに決まっているじゃん。中年男性のような心境になりながら私は答えた。
「じゃあその牛カルビと、それから……ビール下さい。」
「かしこまりました。」
間髪を入れずヒエヒエの生ビールがかっこいいグラスで登場した。早速一口ぐびり。うっま。いや、うっま。なにこれ。いや、ビールだけど。それにしても、うっま。私は身体をひねり、ガラスの向こうに広がる駅の風景を眺めた。まだ十分明るさの残る街を、人々が忙しそうに行きかっている。それなのに私はこうしてビールを飲んでいる。どうして明るい時間に飲むビールって、こんなにおいしいのだろう。まだお通しも来ていないのに、すごい勢いで飲み干してしまいそうだ。
いかんいかん。これでは「おしゃれカフェに行ったのに、食べるのが早すぎて滞在時間が異常に短くなる」といういつもの失敗を繰り返してしまう。何かを読みながらビールを進めることにしよう。とりあえず私はスマホでYahoo!を開き、地元のタブを開いた。そこに表示されていたのは、みなさまおなじみYahoo!知恵袋のこんな質問だった。
「〇〇駅(私の最寄り駅)から有楽町まで新幹線を使って行く場合、一番良い切符の買い方と改札の通り方を教えてください。」
実は私は電車好きだ。しかし好きなだけで知識は全くない。とは言え最寄り駅から東京までの行程であればある程度イメージできる。だがYahoo!知恵袋の鉄道関連の質問に対し、アンサーできる人々のレベルには程遠い。そんな私にとってこの手の質問に対するアンサーは大好物である。私は早速自分が行く予定など全くない有楽町までの玄人のアンサーをつまみに、ビールを飲み始めた。
ちょっと変態のようなことを言うが、これが実に楽しかった。「うんうんあそこで降りて、ああ、そうね、ここで特急券が回収されて、ああなるほどね。」一体何が楽しいのかと聞かれると自分でも説明できないのだが、とにかく楽しい。例えるならば「わざわざ想像するほど実現が難しいわけではない近場についての想像旅行」とでも言えるだろうか。
そんなことをしていたら、女性店員がおすすめのお料理を持ってきてくれた。早速一口。ムムッ、これはおいしい。バゲットは香ばしく、牛カルビはしっかり味が付いている。これはお酒が進むやつや! あっという間にビールは空になり、私は当然のように女性店員にこう告げた。
「すみませーん。スパークリングワインひとつ。」
軽く一杯、という当初のコンセプトはどこへ行ったのか。まあ私ってそういうところがある。女性店員が恭しく注いでくれたスパークリングワインを傾けながら、私は再び背後に目をやった。いつの間にか辺りは暗くなっている。うーんいい感じ。お酒もおいしいし、お料理もおいしいし、これは最高だ。
結局私はその店で一時間ほど過ごし、混雑する前にその店を後にした。入店までは少し戸惑うこともあったが、一口ビールを飲んだその瞬間から、自分が一人で店に入ったことも、そのことに対する不安も吹っ飛んでしまった。大満足のままふらふらといつものバス停に向かう途中で、私はある結論に至った。
一人でおしゃれカフェに入るのはハードルが高いけれど、お酒さえ飲んでしまえばハードルが一気に下がる。つまりまとめると
お酒ってすごい。
ちなみに、あんなに夢中になって読んでいた「最寄駅から有楽町までの経路」ですが、結局今となっては何一つ覚えていません。
次はちゃんとしたカフェにチャレンジしようと思います。