神のみぞ知るセカイを読み返して
完結から9年たった今この漫画を覚えている人がどれだけいるのだろうか。
少なくとも僕の人生の傍らには常にこの漫画がありました。
僕が読み終えたころ丁度最終回を迎えたはずなので、当時12歳。
本当に衝撃で、勃興してきたYouTubeにアップされたキャラソンを親の目を盗んで持ってきた携帯で夜中じゅう聞いたものです。
お気に入りは汐宮栞ちゃん。本当に好きで、アニメを見て花澤香菜さんに惚れて・・・入れ込みようはやばかったですね。
今大人になって読み返し、この10年近くで得たものと、失ったものをまざまざと感じました。
当時受け入れられなかったラストも、この年になって少し見えたものがあるので、栞ではないですけど書かずにはいられなかった。誰も見ないとしても。
神のみぞ知るセカイの中心テーマ
神のみの中心テーマに「現実とは何か?理想とは何か?」というものがあると思います。
主人公の桂馬は既にギャルゲーの中に理想の世界を見出していた。
その理想の結末(エンディング)をココロのスキマを持つヒロインたちに「適用」していたのが駆け魂編だったわけです
桂馬のキメ台詞であった『見えたぞ。エンディングが』という言葉もこれを表してますね
しかし、奇しくも理想通りに動いてくれない現実の女の子との出会いが 桂馬の考えに一石を投じます。
ちひろです。
がんばることもない、目標もない、でも何かにはなりたい。
桂馬の言を借りれば「もがいている」生身の人間。
歩美、美央、かのん、栞、楠。
ここまで桂馬が攻略した女子たちは強烈にキャラの立ったヒロインたちで、
だからこそ決まったルートを用意してあげればよかった。
しかし強烈な何かのない人間はどう捌いていけばいいのかわからない。
結果桂馬は初めて攻略に失敗したわけです。(ちゃんと駆け魂は出していますが)
そこから桂馬は、向き合っているものが攻略キャラではなく「人間」なんだと初めて実感したんだと思うんです。
「みんな、こんな現実(リアル)に四苦八苦している、僕はどうなんだ?」と。
そこからしばし神のみは「理想とは何か」という問いを続けることになります。正しくは理想との向き合い方でしょうか。
何者にもなれない、頑張れない→ちひろ(普通の人)
から
純、月夜という理想を追いかけるヒロインへという流れですね。
二人とも、強烈な理想のセカイを抱いていて、しかしリアルがそれの邪魔をする。
(月夜の場合はリアルが障害だったからこそ理想を構築したという側面が強そうですが・・・回想シーンの月夜は明るいので)
若木先生もあとがきでおっしゃっていますが月夜→純という流れで読んだ方がいいかもしれません。
現実に打ちのめされて理想の殻やそれを目指すことで理想を体現した気になって(月夜は自分とルナだけのセカイを作り、純は鳴沢教大に入って「大人になった」し「たくさん勉強もし」て教育実習生として帰ってくる)
しかし二人ともうまくいかない現実を知り、そのうえで新しいその先を見ます。
月夜は新しい美しいものを、純は理想をさらに押し付けることを。です。
その先の失敗や終わりについて示されたのがみなみ編。
エンディング間際、桂馬は
「終わったから先に進める・・・終わらないものなんて・・・クソゲーだよ!」
「いくつもの終わりがあって、いくつもの新しい世界を見て・・・ボクら・・・大人になるんだ!」と言っています。
出会いと別れを繰り返して、頑張っても理想には全然届かなくて(みなみも第三補欠でしたね)
彼女の場合は水泳というやってるだけで楽しかったことが、
いつの間にか勝つための手段に成り下がり、苦痛になっていき、どうあがいても「失敗」してしまったと感じる。
「終わって」しまう。
しかし桂馬はそれでもと前に踏み出していくことを勧めます。
それが大人になることだと。
昔ほど純粋に生きられるわけでも、ひとつのことに熱中できるわけでもない。
みなみちゃんから見ればエルシィだって「大人っぽい」人(悪魔)です。そういう視野の狭さがあるからこそできたことができなくなることは、つらいことであり、また人生の面白さでもあるのでしょう。
21の若造になって、なれて、世界に馴らされて、
初めて腑に落ちた話でした。
続く天理編は伏線なので割愛。というかそもそも彼女は初登場時から攻略が終わっていますしね。
個人的に白眉、というか心を動かされたのは梨枝子と檜
なんです。
梨枝子編では大人になった先の先、老いと向き合う際のココロのスキマが描かれます。
父母もなくなり、友人もいなくなり、最後には孫が残っているくらい。
孫もずっと顔を見せてくれるわけじゃない。
本当に埋めようのないココロのスキマが空いていって、それを埋める方法もなく、向き合っていくしかない。最後まで。
「現実(リアル)って・・・何なんだろうな・・・長く生きて寂しいなんて、ボクにはわからないよ」と惑う桂馬に対して梨枝子は
「私、いい人生だったよ。」「今は一人でも、一人で生きてきたわけじゃない」というアンサーを返します。
どんなに何かを集めても、欠けていく。
それはさみしいけれど、仕方のないこと。やめるかやめさせられるまで終わらないのが人生らしいので、やっていくしかないのでしょう。
今回はここまで。
筆が止まってしまったので・・・。続かないかもしれないけどそれでも
『私たちには未来があるのです!』
で一度締めたいと思います
では良い一日を。