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何かになることはできなかったけど何かであることはできるんじゃないか
本noteでは「何者にもなれなかった」ことと「何かである」ことの違いについて論じる。
丸の内にほど近い煌びやかなキャンパス。
もはや何をどうしたらそうなるのかわからない複雑な配色をまとった同級生。若々しい喧騒。
全国規模でもそこそこの大学で、キャンパスに来れば就職、人間関係、恋愛…何もかもわからず、僕が敗れ去ったものについての会話で溢れている。4年間挑み続けて
超大手〇〇会社の新入社員にも
慕われるような人格者にも
ヤリチンにも
おしゃれ大学生にも
難関資格にも
スーパー発達障害にも、結局はなれなかった。
学問に親しめる素養にも恵まれず、何もかもを使って捨て身で挑んだ大学院受験にも弾かれ、結局。
結局のところ何者かにはなれなかった。
挑み続ける中で「何者か」など存在しないことすらわかってきた。
でも、誰かや何かが認めてくれなくても。
何かであることはできるのではないか。
社畜ではなく、目の前の仕事に取り組む仕事人ではあれるのではないか。
人格者とはなれずとも偽善者ではあれるのではないか。眼の前の一回性の道徳を発揮することはできるのではないか。
ヤリチンにはなれずとも、目の前の1人を幸せにする、他者と自己の幸せと快楽を最大化させる方法は考えられるのではないか。
自分に似合う服装への思考と試行を回し続けることはできるのではないか。
学問に素養がなくても。
学ぶことを楽しみ、誰かに伝えることは、できるのではないか。
今は学習性無力感に囚われて何をする気も起きない。
でも結局は、諦めきれないのだ。あきらめきれたことがないのだ。不細工で不格好で才もなく努力も足りず一度も理想に手が届いたことのない怠惰な凡人でも夢見てしまうのだ。結局下を向いてなど歩けない。苦しい現実など飲み込めたことがない。
折れたくない、まだ折れられない。不撓不屈とはならずとも何度も何度も折られておられて挫けて馬鹿だから学んで何かを成したい。何かにならない人生なんて退屈で生きていられない、何者かにならなければ、心が死んでしまう。魂の入ってない生き方などできない。血が沸き立たない生き方なんてクソだ犬も食わない。焼け爛れた肌で何かを掴め。気高くあれ。気高く、汚泥をすすってでも這い上がるのだ。
何者にもなれなかった、としても。
灰しか、残らなかったとしても。
私の生きた道の後に何か。何かが残るはず。結局それが何なのかが全てだ。
それでは良い一日を。