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「あ」いち★けん

 汚らわしい生活習慣が発酵して生まれた不潔な空気が充満したこの部屋は、もう少しで爆発するのではないかと思うほどに濃密な臭気が満ち、独特な雰囲気を醸成している。閉じかけの遮光カーテンの隙間から昼の陽光が射し込み、フローリングと棚の一部だけを鮮明にする。陽光の射す空中の一部分、光を反射する無数の埃。きらきらと輝き、緩やかに浮動する埃は宇宙空間に浮かぶ星のように優雅で、不潔の符号である埃が醜悪なこの部屋に「美麗」のアクセントを加えている。

 まるでブルドッグと人間が性交して生まれた醜悪な獣のように弛緩してたるんだ間抜けな面をテレビに向け、右手で袋の中のマイクポップコーンバターしょうゆ味を掴んで口に頬張り、手に付いたポップコーンの油を座っているフロアソファの座面に擦り付ける。山田デ朗は映画「ROOKIES-卒業-」を鑑賞しながら、この一連の動作を熱心にずっと繰り返していた。
 映画の中盤、新大阪の違法JKリフレ通いを教育委員会に糾弾されて懲戒免職になり校舎を去ろうとする主人公の川東幸一を、安仁屋等ニコガクメンバーが泣きながら追いかける劇中きっての名シーンの途中、デ朗が袋に伸ばした右手は、マイクポップコーンの滑らかな感触を捉えなかった。
 静電気のように瞬間的な戦慄がデ朗の脊椎を駆け上がった。目線をマイクポップコーンに落とし、恐る恐る袋の中を確認する。袋の中には数粒のカスしか残っていなかった。目元に力を込め、何度も見直しても袋の中のポップコーンは変化しなかった。
 冷水を背中に掛けられたような悪寒がデ朗を襲い、心拍数が急上昇し、呼吸は困難になり、急激に下がる血糖値。

「ンマァ...マァイク...パプコゥン...」

 絞り出した声がデ朗の臭い部屋に放たれた。しかし、デ朗の濁声はテレビから爆音で流れるGReeeeNの楽曲に飲み込まれて、口から出た傍から直ぐ消えた。デ朗に僅かながら残った冷静な部分が映画を一時停止することを求めたが、全身が小刻みに震えるせいでリモコンを掴むことすら出来ず、映画を止めることが出来ない。諦めたデ朗は全身の力を抜いてソファに体を預け、小刻みに震えたまま天井を見上げた。初めてこの部屋に来た時からある猫の顔に似た黒いシミが徐々に大きくなっていくように見えた。
 己の言うことを聞かない体に対する苛立ちの気持ちと己の人生をこんなにも不自由なものにした神に対する呪詛が混ざり合ってデ朗の目から涙があふれ出た。止まらない涙を拭う右手はポップコーンの油でベトベトで、その油が目に入り、顔を汚し、それがデ朗の気分を穏やかにさせた。その時テレビには、自分のことを思って追いかけてきたニコガクメンバーに笑顔を浮かべながら穏やかに泣いている川東が写っていた。

「スィンクロニシティ...」

テレビに目を落としたデ朗は、自分の不憫だが滑稽とも言える今の状況と共感するように川東幸一とニコガクメンバーが感情を顕にしている様に元気を貰い、笑顔を浮かべながら呟いた。
 デ朗は神の存在など信じていないが、自己責任を逃れるには原因を他者に仮託すればいいという考えから、責任を転嫁させる対象として神を引っ張り出す。山田デ朗と狂信的な宗教家の本質は同じだ。

 ROOKIESに元気付けられたデ朗はコンビニエンスストアへ行きマイクポップコーンを買いに行くことにした。しかしそれは、三ヶ月間外に出ていないデ朗にとって勇気の要る行為で、外出しようと決断してから数分間フロアソファから立ち上がることさえ出来なかった。そんなデ朗の意思に反して、ROOKIESから貰った力が体を快復させていく。マイクポップコーンなんて必要としない体質だったら外出などしなくて済むのに。デ朗の神に対する呪詛がまた増強した。

 十数年前、デ朗は叔父のラウ蕪に連れられて野球を見に行ったことがある。ナゴヤドームで行われた中日ドラゴンズ対広島東洋カープのデイゲームで、広大なスタンドに四割ほどの観客しか入っていない盛り上がりに欠ける客席だったが、野球場という全てが規格外である存在にデ朗の胸は高鳴った。七回の裏、一塁に代走として入った中日の井端弘和がバッテリーの目を盗んで二塁へ走った。完璧なタイミングで走り出した俊足の井端であったが、キャッチャーの強肩によって盗塁は空しくも阻止された。しかし、なんとしても二塁に到達しようと全速力で走る井端の姿にデ朗の心は奪われた。それまでの人生を特に何も考えずに過ごしてきたデ朗にとって、それは初めての体験であった。
 デ朗は初体験のこの興奮をなんとか伝えたいと思って叔父の方を振り向いた。叔父も盗塁を失敗した井端弘和に興奮しているかと思ったが、叔父は大口でホットドッグを銜えたまま白目を剝き固まっていた。デ朗には叔父の感情がよく分からなかったが、よく考えれば大人が興奮する姿をそれまでに見たことが無かったため、大人はこうやって喜びの感情を表現するんだと解釈した。試合は3対5でカープが勝った。試合終わりにベンチの荷物をまとめる井端をデ朗はずっと眺めていた。ベンチを下がり井端の姿が見えなくなっても興奮の冷めないデ朗が叔父の方を見ると、井端が盗塁に失敗したときと同じ姿勢でホットドッグを銜えて白目を剝いていた。先程と違うのはホットドッグを銜えた口の端に白い泡を浮かべている事だ。叔父は死んでいた。ナゴヤドームで井端弘和が盗塁に失敗した丁度その時、ラウ蕪は絶命した。

 デ朗は幼き日にナゴヤドームで見た井端を思い出していた。失敗しようとも、全速力で塁へ駆ける井端。
 そうだ。俺は井端のように勇気を持って全速力で駆け抜けるような人間に憧れていたんだ。今からでも遅くはない。
 人生で初めて憧れた人物に対する尊敬の思いと自分もそうなりたいという願望が心に募り、デ朗の外出に対する恐怖心が和らいでいった。
 デ朗はフロアソファからゆっくりと立ち上がり、先の爆発でこの世を去った祖母の遺品である桐の箪笥の一番下の段を漁った。デ朗の思惑通り、そこには中日ドラゴンズのベースボールキャップが入っていた。この部屋に引き籠もる前、実家に住んでいた頃は四六時中このキャップを被っていた。一度も洗濯をしていないそれは、デ朗の脂汗が染み込み、中日ドラゴンズでは無くて、西武ライオンズのキャップのような濃紺色に変色していた。このキャップは彼の日、叔父のラウ蕪を球場職員と救急隊が運んでいった後、ベンチに残された叔父の財布から抜き取った金で買ったものだ。それを購入したときデ朗はラッキーだと思った。
 そんな幸運のキャップをデ朗は深々と被った。得も言われぬ興奮が奥底から湧き上がり、デ朗を鼓舞する。

「ウォーーー!!!」

デ朗は大声で叫びながら全速力で走り出した。疾駆するデ朗は心の内で、走る我が身と全速力で塁間を駆ける井端を重ね合わせた。二重露光で撮影された写真の様に、自分と井端弘和、完全なる他者である二人の図像がわずかに抽象的な態度で重なりあうイメージがデ朗のやる気を掻き立てた。

 扉を開けた瞬間、目眩がするほどの直射日光がデ朗を襲い少し速度を失った。しかし心の井端がデ朗を奮い立たせた。また疾走を再開し、エレベーターを降りてマンションを出た。
 コンビニエンスストアはマンションの目の前の線路を渡った直ぐ先にあるため、デ朗の気持ちは軽かった。踏切に着く寸前で甲高い警報音と供に遮断機が下りた。遮断機の黄と黒のどギツい彩色が、デ朗に動物的な本能から来る嫌悪感を与えた。数十メートルしか走っていないが、久しぶりに運動したデ朗は過呼吸になりそうなほど呼吸困難になり、両手を膝に付いて電車が通過するのを待った。遮断機が下りて数秒後に通った電車に様々な色が使われたラッピングが施されていた。電車本来のクラシカルで重厚なえんじ色のボディの下部に貼り付けられたそれは、調和とは真逆のちぐはぐな印象を与えたが、不思議とデ朗の気分を落ち着かせた。さらに、疾走する電車にも盗塁する井端を重ね、困難な呼吸など気にならなくなった。
 電車が過ぎて遮断機が上がり、デ朗はまた全速力で走り出し、線路に交差する十字路の角にあるファミリーマートに入った。
 店内には若い男の店員と、女子高校生二人組の客が居た。自動ドアが開き入店したデ朗のことを三人は振り向いて見た。対人関係の不得意なデ朗は三人の視線に敵意を感じた。本当のところ三人はデ朗に対して敵意など向けてはいなかった。デ朗に対して向けられた視線は好奇なものであった。と言うのも、デ朗は中日ドラゴンズのキャップに上下ピンクのジャージと言う装いで、さらに左手にはテレビのリモコンを握りしめていたからだ。どこで取ったのか分からないが、デ朗は家を出る前に無意識でリモコンを握りしめたのだろう。女子高生二人と店員はこれまでに見たことの無い装いの人間に驚き、興味を示していたのだ。
 敵意の視線とは目を合わせぬよう俯きながら入り口近くのカゴを手に取り、デ朗は足早に菓子売り場へと向かった。マイクポップコーンは売り場の上段より下段に置いてある場合が多いというデ朗の秘蔵豆知識から、下段を集中的に探した。BIG BAGコンソメパンチの直ぐ隣にマイクポップコーンバターしょうゆ味を見つけ、売り場に出ている全てをカゴに入れた。直ぐさまレジに行こうと思ったが、バターしょうゆ味の隣にオリジナル極みだし味なる亜種が置いてある事に気が付いた。熱狂したデ朗はオリジナル極みだし味も全てカゴに入れ、スキップしたくなる気持ちを抑えて小走りでレジに向かった。
 レジでは女子高生二人組が会計をしていた。カゴいっぱいに詰まったZONeエナジーを店員が一つ一つ取り出しながらバーコードを読み取っている。二人組は振り返り、半笑いでデ朗を見やりながら小声で会話している。会話の内容は聞こえないが、恐らく悪口を言われているのだろうとデ朗は思った。さらにZONeエナジーをレジスターで読み取りながら店員もチラチラとデ朗の方を見る。こみ上げる笑いを押し殺すように鼻をヒクヒクさせながら口角を上下させる店員にデ朗は殺意を抱いた。
 自分を辱める存在に出会った時、デ朗はそいつを殺すにはどのようなやり方が適しているかをあれこれ考えることで気を落ち着かせる。

 井端のような全力疾走で女子高生の間に割り込み、店員からカゴを奪う。カゴに入ったZONeエナジーを握り、その缶の堅い底部を店員のこめかみに振り下ろす。鮮血が吹き出し後方のたばこ棚に倒れる店員。店員の血を浴びた女子高生は恐怖のあまり失禁しながら甲高い叫びを上げる。叫びながら逃げようとするその背中に中華まんの保温器を倒し、物理的衝撃と熱を与える。下敷きになり動けなくなった女子高生の頭部にアイスケースから取り出したロックアイスをお見舞いし、頭蓋を叩き割る。

 デ朗は殺害の妄想に満足して落ち着きを取り戻した。店員が最後のZONeエナジー読み取った丁度その時、目出し帽を被った大柄の男が店に入ってきた。男は両手で握りしめたショットガンを真上に向け、天井に一発撃ち込んだ。

「生きてても良い事なんてないぜ」

 ヘロヘロとした声で大柄の男が言った。デ朗を含む店内の全員が状況を飲み込めず、ただただ硬直して立ち尽くしていた。大柄の男はゆっくりとした足取りでレジまで歩み寄ってきた。

「お前、何歳だい?楽しい?」

大柄の男が店員に話しかけた。

「え...あ、あ...」

店員は恐怖のあまり答えることが出来ない。そもそも初対面の人間にする質問では無い。仮に目出し帽とショットガンが無かったとしてもすんなり答えられる質問では無い。

「お、お金出します...」

殺されるという恐怖に堪らなくなった店員はレジスターの金を全てカウンターに出した。

「そうかぁ。楽しいかぁ」

そう言った後、大柄の男は店員の腹に散弾をぶち込んだ。店員の血がレジカウンターを真っ赤に染め上げた。大柄の男が振り返り、今度は女子高生の方を向いて尋ねた。

「最近はどう?着信音なに?」

女子高生は着信を告げる携帯のバイブレーションのように顎をガクガクさせながら震えていた。勿論、二人とも失禁していた。

「あ、あ...デフォルトのやつです」

性病を持ってそうな方の女子高生が震えながら答えた。

「お前は?」

大柄の男は大家族っぽい方の女子高生に言った。しかし、女子高生は恐怖に震えるばかりで何も言うことが出来なかった。

「そうですか」

そう呟いた後、大柄の男は二人の頭を跳ね飛ばした。鮮血で真っ赤に染まったファミリーマートをデ朗は初めて見た。

 大柄の男は入り口の方に向き、自動ドアを数発の散弾で破壊した。銃を床に捨て、膝を少し曲げて前傾姿勢を取った。丸太のような大腿と鋭利なストライドが野獣のような運動神経を具現化している。

「全力疾走だよ、青年」

 大柄の男はデ朗にそう言った後、全力で走り出してファミリーマートから出ていった。デ朗も慌てて店を出たが、男はもう消えていた。

 あれは間違いなく井端弘和だ。引退した今もなお、衰えないその獣のような運動神経にデ朗は感心した。
 デ朗はふと思い立ち、左手に握ったリモコンの巻き戻しボタンを押した。世界が巻き戻り、全速力の井端が後ろ向きで戻ってきた。走り出す直前の前傾姿勢の状態まで戻った時、一時停止ボタンを押した。
 井端の機能的であり野獣の様な姿態が静止する様を眺め、ずっとこのままが良いやと思いながらデ朗はマイクポップコーンを貪り食った。


*現代社会に不適切な表現と見做し、作中における全ての猥褻的な人名を変更いたしました。時代情勢に合わせた変更を何卒ご容赦いただけますと幸いです。




 「理不尽な殺人が戯れのような軽さで行われる世界の中、主人公だけには理不尽な死が訪れない」というような所謂ご都合主義的な展開により、作者の倒錯的な思想やイデオロギーをその作品世界の不文律として描くことができてしまう。嘗ての文学界に存在した、同時代を生きる作家同志の「共に時代を作る」と言う様な共通認識や暗黙の了解が消え失せ、21世紀の文学は気骨を失って錯乱した頭部を持つ個々の病躯が唯「在る」だけだ。
 現代社会に蔓延する屈折した自己認識と堅固な自意識の悪魔が、自由度の高い言語表現に及ぶに至って最悪の婚姻関係を結んでしまった21世紀の文学に、救いの道は無い。

キセキ by GReeeeN

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