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質量はどこへ行くのか。レガシーなものになるのか。
ふと。
質量はどこへ行くのか。レガシーな指標になるのか。
一年を振り返るにはまだ早いけど。幸か不幸か、今年早々に電子ノートがぶっ壊れてくれたおかげで、紙のノートで日記めいたものと、一日のスケジュ
ール管理と記録を行うようになって、これがすこぶるいい。
量と質感。質量。
「あぁ、この一年、こんなに思考したんだ。苦労したんだ。成長したんだ。」
そんな思いが、手の上にある重さを伴って実感できる。
電子ノートだったら、同じ行為でもその後に質量は記録されない。きっとこんな実感を体感することもできなかったんじゃないかな。
本来の目的から考えればそういう実感は不要なものかもしれない。メモができればいい、振り返ることはない。
スケジュールや思考をはじめ、質量を持つものがデジタル化された時に、質量で実感していたものはどこに行くのか。それに変わるものはなんだろうか。目の前に広がる「大きさ」「広さ」?とか、ふと。それともそれはレガシーで不要なものとして、シンプルに消えていくものなのか。
でもその質量を通して感じていたものを、何かしらデジタルの中で再現できたらいいなぁとか。
メモやスケジュールだけでなく、デジタルの上に再現されたアバターは視覚的な情報だけでなく、一種の「質量」「重さ」を実感するすべがもしあったらば、それはもっと多次元的な情報になりそうだな、とか。